Monthly Archives: 2月 2014
No.0007_0023
斑鳩三塔の道
大黒屋の看板
大黒屋(旅館)の前の様子
1965(昭和40)年
古写真についての斑鳩町民の記憶
『斑鳩物語』で有名
現在の写真
2017年撮影
老朽化により取り壊され、駐車場になっている。
その他メモ
大黒屋は鴟尾をのせた木造3階建ての旅館で、明治10年頃建設された
この旅館の前には法隆寺夢殿がある
No.0005_0001
竜田街道 - 東
法隆寺参拝(早春)
法隆寺参拝の帰り道。
1964(昭和39)年3月
古写真についての斑鳩町民の記憶
日常的に和服を着ている人もいた。
その他メモ
現在では子どもと観光バスを見に行く道としてよく歩いている。この参道は東西を県道にはさまれた町道である。
No.0001_0077
竜田川道
キャンプ
子ども達が竜田川畔でキャンプをしている。
1973(昭和48)年7月
古写真についての斑鳩町民の記憶
土手がコンクリートになっておらず、川遊びができた。
自由に川に降りることができた当時の様子がよくわかる。
その他メモ
テント
No.0001_0078
竜田街道 - 東
法隆寺前
国道25号線から見た法隆寺の参道
1972(昭和47)年
現在の写真
2024(令和6)年1月 写真グループ「写遊 鵤」撮影
古写真右奥の駐車場だった所に「法隆寺ⅰセンター」が建てられた。[1]
その他メモ
古写真:通行人(待ち合わせか)、松並木、観光バス、法隆寺参道、国道25号線
「聖徳宗総本山法隆寺」の石碑(法隆寺の「隆」の字は「隆」(異体字)である)
[1]『斑鳩の生活史:聖徳太子から1400年』亀井龍彦著 斑鳩文化協議会(1998)p.82
No.0001_0010
斑鳩三塔の道
村(岡本)へ入る道
村(岡本)へ入る狭い道
No.0002_0003
斑鳩三塔の道
法隆寺土塀と西大門
右手奥に法隆寺西大門が見える
1958(昭和33)年9月
現在の写真
2024(令和6年)3月撮影
その他メモ
現在土塀は修復され道幅もやや広くなっている。
No.0001_004
斑鳩三塔の道
天満池越しにみえる墓地
天満池越しにみえる極楽寺墓地
1959(昭和34)年6月
その他メモ
白石畑へ行く道
No.0007_0014
興留道
変貌する興留
農作業の合い間のひと休み
1966(昭和41)年6月
古写真についての斑鳩町民の記憶
湿地帯なので田植えのとき、かなり浸かっていた。
その他メモ
麦わら帽子を被った農夫2人、建設中の家
No.0005_0003
竜田街道 - 東
秋の中ごろの晴れた日
1966(昭和41)年頃
その他メモ
「バス乗り場」は少し東側に移動し、この場所は現在「ⅰセンター」になっている。
No.0007_0021
服部道
国鉄法隆寺駅
国鉄時代の法隆寺駅のホーム
1968(昭和43)年
古写真についての斑鳩町民の記憶
上りホームには3番のりばがあった。
現在の写真
2016年撮影
2007(平成19)年の橋上駅化に伴い、3番のりばは撤去された。
その他メモ
駅舎
No.0004_0004
イツボ川道
保育園の制服で
保育園の制服姿
1977(昭和52)年4月3日
その他メモ
宅地造成中か、 都市ガスメーター、水道蛇口、線路
No.0004_0001
服部道
服部旧村集落と社宅
社宅付近で父と
1973(昭和48)年11月
その他メモ
当時の子どもの乗り物(車)、稲わら干し
No.0007_0024
斑鳩三塔の道
大黒屋 全景
大黒屋旅館
1965(昭和40)年
古写真についての斑鳩町民の記憶
高浜虚子が『斑鳩物語』を執筆した旅館として有名。
戦後この旅館の前で盆踊りをしていた。
現在の写真
2017年撮影
老朽化により取り壊され、駐車場になっている。
その他メモ
大黒屋は鴟尾をのせた木造3階建ての旅館で、明治10年頃建設された
この旅館の前には法隆寺夢殿がある
No.0007_0025
斑鳩三塔の道
廃屋の大黒屋
大黒屋旅館
1982(昭和57)年
古写真についての斑鳩町民の記憶
この旅館の前で、戦後はよく盆踊りをしていた。
高浜虚子が『斑鳩物語』を執筆した旅館として有名。
現在の写真
2017年撮影
老朽化により取り壊され、駐車場になっている。
その他メモ
大黒屋は鴟尾をのせた木造3階建ての旅館で、明治10年頃建設された。
廃屋となってしまったが、屋根瓦の様子と鴟尾が見える。
壁にポスターが貼られている。
東隣りに旅館大黒屋の看板が見える。
No.0001_0062
竜田川道
紅葉狩り
ひょっとこの余興を楽しむ人々
古写真についての斑鳩町民の記憶
日常的に和服で纏め髪姿の女性がいた。川のすぐ近くまで下りることができた。
その他メモ
観光客と芸人
No.0001_0011
斑鳩三塔の道
法起寺
法起寺
古写真についての斑鳩町民の記憶
刈り入れが終わった田んぼと稲わらが見えるので秋以降だが、柿の木の葉がなくなっているので寒い時期の写真だと思う。
写真右手前はトイレ。
その他メモ
法起寺講堂、塔、聖天堂
No.0001_0009
斑鳩三塔の道
法起寺南大門
法起寺南大門
その他メモ
現在は西門から出入りするので、南大門の存在を知らない人がいる。
No.0003_5001
太子学問の道
散歩
上宮地蔵前を犬と散歩
1980(昭和55)年
古写真についての斑鳩町民の記憶
8月24日の地蔵会では、大きな数珠繰りをしていた。
その他メモ
上宮地蔵、太子道、道標石、レンゲ畑
No.0003_5002
太子学問の道
上宮での犬の散歩
上宮での犬の散歩
1985(昭和60)年
古写真についての斑鳩町民の記憶
上宮地蔵前で8月24日の地蔵会では大きな数珠繰りをしていた。
その他メモ
上宮地蔵、太子道の道標
No.0004_0009
服部道
集団登園
写真奥に見えるのは旧服部村
その他メモ
生垣
No.0001_0063
斑鳩三塔の道
法輪寺前
法輪寺南大門
1963(昭和38)年10月
古写真についての斑鳩町民の記憶
1944(昭和19)年に落雷により三重塔が焼失し、1975(昭和50)年に再建されたので、この時は三重塔がない。
現在の写真
2024(令和6)年4月 末浪 博已氏撮影
その他メモ
法輪寺前の道(現在町道)は舗装されていない地道。
No.0002_0012
その他
富雄川を渡るSL
線路にレールがない様子
1960(昭和35)年9月
古写真についての斑鳩町民の記憶
富雄川の鉄橋を走る汽車。昭和19年戦争による金属供出で片側の線路が撤去され単線になっている。(王寺~奈良間)
再複線化は昭和36年[1]
[1]『斑鳩の生活史:聖徳太子から1400年』亀井龍彦著 斑鳩文化協議会(1998)p.66
『町制50周年記念 町勢要覧』斑鳩町総務部企画公室(1997)統計資料16
現在の写真
2024(令和6)年1月 写真グループ「写遊 鵤」撮影
その他メモ
鉄橋
No.0001_0067
竜田川道
竜田川と橋
竜田川に架かる小さな橋を渡る親子
1965(昭和40)年11月
古写真についての斑鳩町民の記憶
堂山橋の袂(たもと)に「つるや」の桟敷があった。「つるや」のおばちゃんは剛毅な方だった。
その他メモ
橋は堂山橋か。ベビーカーの親子。
No.0003_0001
太子学問の道
お祝いの日
成福寺唐門前で仲良く記念撮影
古写真についての斑鳩町民の記憶
現在成福寺は廃寺となりフェンスに囲まれた敷地のみになっている。
その他メモ
成福寺の唐門、女の子の七五三のお祝い
No.0001_0059
竜田川道
竜田川と橋
懐かしい木の橋(紅葉橋か?)
1962(昭和37)年10月
古写真についての斑鳩町民の記憶
この時代は木の橋が当たり前だった。
その他メモ
欄干が低い
No.0001_0079
その他
川と橋とリヤカー
リヤカーで荷物を運んでいる。
1971(昭和46)年
現在の写真
2023(令和5)年12月 写真グループ「写遊 鵤」撮影
その他メモ
この橋は増水すると沈んでしまう。
No.0001_0060
竜田川道
ボート遊び
川ではボートを漕ぎ、岸辺では桟敷で紅葉狩りを楽しんでいる(竜田川)
1962(昭和37)年10月
古写真についての斑鳩町民の記憶
春、秋の観光シーズンには多くの観光客が訪れた。この辺りの川沿いには料理旅館(錦波楼,もみじ屋,ふきの屋)が軒を連ねていた。
現在の写真
2016年撮影
ボート遊びはなくなったが、県立竜田公園として整備され、春は桜、秋は紅葉の名所として親しまれ住民の交流がなされている。
No.0002_0011
その他
富雄川の鉄橋
金属供出により片方の線路が撤去され、単線になった富雄川鉄橋
1960(昭和35)年9月
古写真についての斑鳩町民の記憶
戦争で金属供出により片方の線路が撤去され単線になっている
現在の写真
2024(令和6)年1月 写真グループ「写遊 鵤」撮影
その他メモ
古写真:鉄橋、汽車
No.0004_0003
服部道
登園風景
前方に見えるのは服部川に架かる橋
古写真についての斑鳩町民の記憶
服部の自宅から当時龍田南3丁目にあった南部保育園に集団登園していた。
その他メモ
農具入れ、信貴生駒山系の山並み(中央やや左に信貴山雄岳と雌岳)
No.0004_0002
服部道
登園風景
前方には服部川の堤が見える
古写真についての斑鳩町民の記憶
服部の自宅から当時龍田南3丁目にあった南部保育園に集団登園していた。
その他メモ
小吉田の町なみ、カーブミラー、信貴山雄岳・雌岳(正面やや左)
No.0001_0056
斑鳩三塔の道
登園風景
法隆寺の参道を通って登園
1962(昭和37)年4月
古写真についての斑鳩町民の記憶
2012年頃、松並木の道沿いにあった医院が閉院してしまった。この医院は有名な建築家が建てたものだそうだ。
(注:ワークショップで採集した記憶であり、撮影した写真と話者の年代は異なります。)
その他メモ
園児2人
No.0002_0006
斑鳩三塔の道
法輪寺で遊ぶ子ども
かくれんぼ
1959(昭和34)年2月
古写真についての斑鳩町民の記憶
境内は子どもの遊び場だった
No.0001_0037
竜田街道 - 東
法隆寺参道
1961(昭和36)年1月
古写真についての斑鳩町民の記憶
小学校当時(昭和51年~昭和56年)法隆寺に行くのは秋祭りと会式のときだった。その時松並木をよく通って行った。
No.0007_0017
竜田街道 - 東
バイパス(現大和高田斑鳩線)工事
土盛りによって道路の形が作られる
1966(昭和41)年6月
No.0001_0033
竜田街道 - 東
法隆寺参道
松並木を歩く親子
1961(昭和36)年1月
古写真についての斑鳩町民の記憶
小学校当時(昭和51年~昭和56年)、法隆寺に行くのは秋祭りと三月の会式(えしき)の時だった。その時この松並木を通って行った。
No.0001_0008
斑鳩三塔の道
法起寺の塔
新池越しに法起寺の塔を望む
古写真についての斑鳩町民の記憶
昭和30年頃、新池は澄んでいてきれいな池だった。小学生の頃泳ぎに行った。エビもいて身体をつつかれた。竹竿を浮き輪代わりにして遊んだ。大人には危ないと注意されたが泳ぎに行った。
写真左に見える建物は現在ビニールハウスになっている。
No.0007_0013
竜田街道 - 東
バイパス(現大和高田斑鳩線)工事始まる
農道がバイパスに変わっていくところ
1966(昭和41)年6月
古写真についての斑鳩町民の記憶
オート三輪が通れる農道だった。
先ず西名阪法隆寺インターチェンジまでの道を作っていた。
東側は水路があり広げられなかったので、写真奥の大和棟の家を引き家して動かした。水路は今も残っている。
その他メモ
並松集落、大和棟の家
No.0007_0019
服部道
跨線橋工事 その1
建設中の道路(現大和高田斑鳩線)並びに付近の風景
1968(昭和43)年
古写真についての斑鳩町民の記憶
昭和44年(1969年)も跨線橋工事は継続中だった。
高速道路ができたことを契機に引かれた道なので将来の記録に残そうと思って撮影した。
その他メモ
2階建集合住宅、洗濯物
No.0001_0020
斑鳩三塔の道
法起寺三重塔
この写真では塀が無いようだ。
1960(昭和35)年10月
古写真についての斑鳩町民の記憶
高浜虚子の『斑鳩物語』で有名。
法起寺(ほうきじ)は地元では「ほっきじ」と呼んで親しんできた。
その他メモ
秋にはコスモスの花が美しいので写真撮影する人が多い。
No.0001_0045
斑鳩三塔の道
聖雲閣
何かの会で集まった人たち
古写真についての斑鳩町民の記憶
聖雲閣はなくなり、現在は駐車場にかわった。西大門からウォーナー塔へいく道沿いから見える料理屋だった。
聖雲閣は料理旅館で天ぷらが専門だった。
この道は車が入ってこないので、かくれんぼ、ボール投げをした。近所の子は男の子も女の子も10歳くらいまで遊んだ。
法隆寺境内でもよく遊んだ。もう少し大きくなると、弁天池に材木がプカプカ浮いていたので、それにのって遊んだ。危なかったが楽しかった。
(2013年のワークショップ時に聞き取り)
現在の写真
2024(令和6)年2月撮影
2004年頃に駐車場になった。
その他メモ
古写真:聖雲閣より法隆寺西大門への道と塀。懐かしい車(タクシー)とスーツ姿の男性と和服の女性。
No.0001_0044
斑鳩三塔の道
西里の聖雲閣前
聖雲閣への送迎のタクシー
1962(昭和37)年
古写真についての斑鳩町民の記憶
聖雲閣はなくなり現在は駐車場になっている。西大門からウォーナー塔へいく道沿いにあった料理屋だった。
聖雲閣は料理旅館で天ぷらが専門だった。
この道は車が入ってこないので、近所の10歳くらいまでの子ども達は、男の子も女の子もかくれんぼやボール投げをして遊んだ。
法隆寺境内でもよく遊んだ。もう少し大きくなると弁天池に材木がプカプカ浮いていたのでそれにのって遊んだ。危なかったが楽しかった。
現在の写真
2024(令和6)年2月撮影
2004年頃に駐車場になった。
その他メモ
前方は法隆寺西大門