Author Archives: ikaruga
No.7001_0001
斑鳩三塔の道
法輪寺三重塔再建
古写真についての斑鳩町民の記憶
中学生のとき、住職の知り合いだった親戚に連れられて法輪寺三重塔の再建工事現場に上らせて頂いて撮影したものです。
No.7001_0002
斑鳩三塔の道
法輪寺三重塔再建
古写真についての斑鳩町民の記憶
中学生のとき、住職の知り合いだった親戚に連れられて法輪寺三重塔の再建工事現場に上らせて頂いて撮影したものです。
No.7001_0003
斑鳩三塔の道
法輪寺三重塔再建
古写真についての斑鳩町民の記憶
中学生のとき、住職の知り合いだった親戚に連れられて法輪寺三重塔の再建工事現場に上らせて頂いて撮影したものです。
No.0054_0009
興留道
物置小屋
後方に関西本線の線路が見える
古写真についての斑鳩町民の記憶
興留5丁目の自宅脇の物置小屋から線路が見えた。そのくらい民家もまばらだった。
No.0054_0006
興留道
自宅(官舎)付近
新しく建った住宅
古写真についての斑鳩町民の記憶
手前は宅地造成中
No.0054_0005
興留道
法隆寺駅
駅の跨線橋が見える
その他メモ
駅の跨線橋の奥に見えるのは「大和髙田斑鳩線」
No.0054_0008
興留道
官舎
官舎住まいが始まった。
古写真についての斑鳩町民の記憶
父親の勤務先の官舎ができたので、斑鳩町に転居してきた。
その他メモ
垣根
No.0054_0004
興留道
家の近くで
1960年代後半
古写真についての斑鳩町民の記憶
写真右奥に「理容」と見える。現在も同じ位置で営業している。
No.0054_0003
竜田街道 - 東
法隆寺参拝
No.0054_0002
興留道
自宅付近の様子
No.0054_0001
興留道
官舎住まいから引越し
1960年代後半の阿波2丁目の様子
古写真についての斑鳩町民の記憶
父の職場の官舎が斑鳩町興留5丁目にできたので、しばらく住んでいたが阿波に引越し。
法隆寺駅に近い所で、民家が増えてきている。
No.0052_0015
斑鳩三塔の道
葬送
法隆寺東大門から極楽寺への葬送の道
古写真についての斑鳩町民の記憶
昭和の土葬だったころの写真。
母方の祖父の葬儀。
その他メモ
葬送の道は、『私の法隆寺物語』高田良信/著(東方出版 2020年発行)pp.300-301 が参考になると思われる。
No.0052_0014
竜田街道 - 東
並松自治会 夏祭り
お揃いのきもので踊りを披露
古写真についての斑鳩町民の記憶
舞台を作って、様々な余興があった。
その他メモ
紅白の幕 スポットライト
No.0052_0013
斑鳩三塔の道
田植え
No.0052_0012
竜田街道 - 東
婚礼家具
1974(昭和49)年
古写真についての斑鳩町民の記憶
婚礼タンスの前で
その他メモ
婚礼家具は紅白の紐で飾り、トラックで運んだ。
当時はよく見かけた光景だった。
No.0052_0011
竜田街道 - 東
婚礼道具
1974(昭和49)年
古写真についての斑鳩町民の記憶
トラックに乗せ、幕と紅白の紐を掛けて運んだ
その他メモ
割烹着姿
No.0052_0010
竜田街道 - 東
結納品
No.0052_0009
太子学問の道
アイスクリーム売り
斑鳩神社の秋祭りに合わせてアイスクリームを販売
その他メモ
半被の襟に「奈良県公認 公園行商」
土塀に須柱が入っている。
No.0052_0008
太子学問の道
斑鳩神社秋祭り
No.0052_0007
太子学問の道
斑鳩神社秋祭り
No.0052_0005
斑鳩三塔の道
斑鳩神社秋祭り
1981(昭和56)年
南大門前
古写真についての斑鳩町民の記憶
門前にあった食堂兼土産物屋「かどや」(2004年頃まであった)
No.0052_0004
斑鳩三塔の道
斑鳩神社秋祭り
1981(昭和56)年
南大門前
古写真についての斑鳩町民の記憶
宮座五集落(三町・西里・東里・五丁町・並松)の各太鼓台には、太鼓叩きの男子と襷装束(たすきしょうぞく)した数人の男子の稚児が乗っている。[1]
三町(本町)の「ふとん太鼓」は紅白
[1]聖徳太子から1400年-『斑鳩の生活史』より
その他メモ
門前にあった「かどや」
No.0052_0003
斑鳩三塔の道
斑鳩神社秋祭り 宵宮
1981(昭和56)年
天狗
古写真についての斑鳩町民の記憶
「斑鳩神社」の神霊が年に一度、神輿(みこし)で法隆寺境内のお旅所へ渡御(とぎょ)される古来からの儀式。
【宵宮の午後】
本殿から神霊神輿が氏子達に担がれて山を降り、宮司・天狗・御旗(みはた)・唐櫃(からびつ)に続き、稚児(女児)行列に繋がる神輿の渡御行列を法隆寺・東大門下で5地区(三町・西里・東里・五丁町・並松)の太鼓台と堤灯台が連座して迎える。[1]
[1] 聖徳太子から1400年-『斑鳩の生活史』より
その他メモ
テント
No.0052_0002
斑鳩三塔の道
斑鳩神社秋祭り 宵宮
1973(昭和48)年
宵宮 行列
古写真についての斑鳩町民の記憶
「斑鳩神社」の神霊が年に一度、神輿(みこし)で法隆寺境内のお旅所へ渡御(とぎょ)される古来からの儀式。
【宵宮の午後】
本殿から神霊神輿が氏子達に担がれて山を降り、宮司・天狗・御旗(みはた)・唐櫃(からびつ)に続き、稚児(女児)行列に繋がる神輿の渡御行列を法隆寺・東大門下で5地区(三町・西里・東里・五丁町・並松)の太鼓台と堤灯台が連座して迎える。[1]
[1]聖徳太子から1400年-『斑鳩の生活史』より
現在の写真
2024(令和6)年4月 末浪 博已氏撮影
No.0052_0001
斑鳩三塔の道
斑鳩神社秋祭り
1973(昭和48)年
宵宮 行列
古写真についての斑鳩町民の記憶
「斑鳩神社」の神霊が年に一度、神輿(みこし)で法隆寺境内のお旅所へ渡御(とぎょ)される古来からの儀式。
【宵宮の午後】
本殿から神霊神輿が氏子達に担がれて山を降り、宮司・天狗・御旗(みはた)・唐櫃(からびつ)に続き、稚児(女児)行列に繋がる神輿の渡御行列を法隆寺・東大門下で5地区(三町・西里・東里・五丁町・並松)の太鼓台と堤灯台が連座して迎える。[1]
[1] 聖徳太子から1400年-『斑鳩の生活史』より
その他メモ
斑鳩神社本殿から法隆寺東大門に向かっている
No.0048_0012
竜田川道
ソウレン道 -6
葬列(墓地への道)
古写真についての斑鳩町民の記憶
葬列は、垣内の長老が務める「鉦たたき」を先頭に葬連道を進んだ。
どこに家があっても必ずソウレン道の入口まで向かい墓地まで歩いて行くのが決まり。
1968(昭和43)年まで土葬だった。
No.0048_0011
竜田川道
葬儀
僧侶による儀礼
古写真についての斑鳩町民の記憶
喪主は白裃白袴を着た。親戚は白い着物を着て半紙で作った△の半紙を頭に付けた。
No.0048_0010
竜田川道
葬儀の日
1960(昭和40)年頃
古写真についての斑鳩町民の記憶
葬式は垣内(かいと)ジマイといい、垣内中が協力して行う。垣内長が葬儀委員長を務め、葬儀の役割を決める。紙に書いて掲示した。
その他メモ
葬儀準備の役割
1.穴掘り:(死亡した人の家に隣接する東西南北の四軒が受け持つ)埋葬地を決める権限があった。
2.道具作り:角塔婆(ヒノキ材を購入して角に加工し、寺で戒名を書いてもらう),ろうそく立て,提灯と旗
3.帳場:葬儀委員長や会計など五人で葬儀を取り仕切る
4.買い物:必要なものを王寺に買いに行く。掛帳で買い、葬式が終わってから会計が支払いに行く
5.休憩所:寺の僧侶の休憩所。近隣の家が受け持つ。
家の神棚に半紙を貼り、仏壇の扉を閉める。
No.0048_0007
竜田川道
ソウレン道 -5
墓地に続く坂道
古写真についての斑鳩町民の記憶
坂道は皆で力を合わせて霊柩車を押し上げた。
1968(昭和43)年まで土葬だった。
No.0048_0006
竜田川道
ソウレン道を行く -4
霊柩車の後に続く葬列
古写真についての斑鳩町民の記憶
ソウレン道の辻ごとにロウソクを立てた。火は付けない。
割った竹に細長く切った半紙を竹と半紙が縞模様になるように巻き付け、竹の先端を尖らせて、そこに受け皿として椿の葉を差し、ロウソクを立てた。
その他メモ
頭に△の半紙を付けた親族
No.0048_0005
竜田川道
ソウレン道を行く -3
1960(昭和40)年
ソウレン
古写真についての斑鳩町民の記憶
葬儀の家がどの位置にあっても、必ずソウレン道の入り口まで向かい、そこから墓地に向かった。
1968(昭和43)年まで土葬だった。
その他メモ
黒い傘 霊柩車
No.0048_0004
竜田川道
ソウレン道を行く -2
1965(昭和40)年
葬列
古写真についての斑鳩町民の記憶
葬列は垣内(かいと)の長老が務める鉦(かね)たたきを先頭にして進んだ。
その他メモ
割烹着姿の婦人達。 襷(たすき)を斜めに掛けた人びと。
No.0048_0003
竜田川道
ソウレン道を行く -1
お墓に向かって歩いている
古写真についての斑鳩町民の記憶
ソウレン道とは、葬列が進む墓までの道のこと。
喪主は白裃白袴を着た。親戚は白い着物を着て半紙で作った△(三角)を頭に付けた。
どこに家があっても必ずソウレン道の入口まで向かい墓地まで歩いて行くのが決まり。
No.0048_0001
竜田川道
出棺前の読経
1965(昭和40)年
葬儀が終わり霊柩車の前で引導を渡している
古写真についての斑鳩町民の記憶
ビニールが掛けられているのは、霊柩車を新調したばかりだったから。
この霊柩車は王寺町の大西花香社が製造した。リヤカーを土台に作られている。
その他メモ
白い布で覆われた樒(しきみ)(参列者の後ろ)
No.0029_0012
竜田街道 - 西
結婚披露宴
法隆寺西大門の西側にあった「聖雲閣」で
古写真についての斑鳩町民の記憶
「聖雲閣」は、1953(昭和28)年に開店した料理旅館 [1]
その他メモ
[1]『斑鳩の生活史:聖徳太子から1400年』亀井龍彦著 斑鳩文化協議会(1998)p.188
No.0049_0002
斑鳩三塔の道
新郎新婦記念写真
1959(昭和34)年2月
新郎新婦
古写真についての斑鳩町民の記憶
町営結婚式場は旧北畠邸であった。
新生活運動の先駆けとして行政は運営委員会を組織し好評を得た。
20余年間町民に随分重宝された。[1]
その他メモ
[1]『斑鳩の生活史:聖徳太子から1400年』亀井龍彦著 斑鳩文化協議会(1998)p.205
式では「誓約書」を読んだ。巻物になっていて長い文章だった(1965年に結婚式を挙げた方の話)
三々九度の盃にお酒を注ぐのは、社会福祉法人「いかるが園」の子どもが担当していた。
No.0029_0020
竜田街道 - 西
披露宴
挨拶
古写真についての斑鳩町民の記憶
町営結婚式場で結婚式を挙げ、披露宴は当時人気があった「聖雲閣」で行った。
その他メモ
挨拶が長かった印象がある。
新婚旅行が終わると、次は親戚への挨拶回りに行った。和服で行くのが常識だった時代で、とても疲れた事を覚えている。(同時代に結婚した方の話)
No.0029_0018
太子学問の道
式場中庭にて
1964(昭和39)年2月
古写真についての斑鳩町民の記憶
1954(昭和29)年から1977(昭和52)年までの約20年間にわたり、町民に随分重宝された。
新生活運動の先駆けとして、行政は運営委員会を組織し好評を得た。 [1]
その他メモ
[1]『斑鳩の生活史:聖徳太子から1400年』亀井龍彦著 斑鳩文化協議会(1998)p.205
この年(1964年)は東京オリンピックが開催され、テレビの普及が一気に進んだ。
家庭用の冷蔵庫の普及率も進んでいた。
嫁入り道具は「竜田日進運送」のトラックで運んだ。ご近所の方々が荷物を見に出てきて見送ってくれた(川西町から斑鳩に嫁いだ方の話)
No.0049_0005
斑鳩三塔の道
花嫁の着付けをしていた大伯母
昭和38年
町営結婚式場前にて
古写真についての斑鳩町民の記憶
当時は自宅で花嫁の準備を整えてから式場に向かった。
おそらく、あちらこちらの家で着付けをしたのだろう。
その他メモ
割烹着
No.0029_0016
斑鳩三塔の道
町営結婚式場の庭にて
1964年(昭和39年)2月
古写真についての斑鳩町民の記憶
旧北畠男爵邸を町が無償借用し、昭和29年(1954年)10月町営結婚式場を開設した。
多い年は結婚式が80組ぐらいもあったという。[1]
建物は2階建てで広い庭があった。[2]
その他メモ
参考
[1]『斑鳩の生活史:聖徳太子から1400年』亀井龍彦著 斑鳩文化協議会(1998)P.205
[2]『斑鳩町史』史料編 P.95
No.0029_0014
竜田街道 - 西
新婦入場
披露宴会場に入場
古写真についての斑鳩町民の記憶
結婚式は町営結婚式場で挙げ、披露宴会場は「聖雲閣」だった。
「聖雲閣」は、1953(昭和28)年に開店した料理旅館 [1]
その他メモ
[1]『斑鳩の生活史:聖徳太子から1400年』亀井龍彦著 斑鳩文化協議会(1998)p.188
No.0029_0013
竜田街道 - 西
結婚披露宴
新郎入場
古写真についての斑鳩町民の記憶
町営結婚式場で結婚式を挙げ、披露宴は「聖雲閣」で行った。
「聖雲閣」は、1953(昭和28)年に開店した料理旅館 [1]
その他メモ
[1]『斑鳩の生活史:聖徳太子から1400年』亀井龍彦著 斑鳩文化協議会(1998)p.188
No.0049_0009
斑鳩三塔の道
結婚式場への道
1959(昭和34)年 2月
古写真についての斑鳩町民の記憶
自宅で支度を整えて式場へ。式場が近かったので歩いて行った。
ご近所の方々も見送ってくれた。
No.0049_0007
斑鳩三塔の道
花嫁の後ろ姿
1959(昭和34)年 2月 自宅にて
古写真についての斑鳩町民の記憶
町営結婚式場には貸衣装もあった。「広報いかるが」に度々利用を促す記事が掲載され、貸衣裳料金も明記されていた。
No.0029_0019
太子学問の道
お色直しの衣裳で
1964(昭和39)年2月
その他メモ
この頃(1964年)は、結婚式の当日に新婚旅行に出発した。行先は信州や伊豆辺りが多かった。
百貨店で誂えたスーツ(三つ揃い)と帽子を身に着けるのが定番だった。
No.0029_0015
竜田街道 - 西
結婚式場入り口で
1964(昭和39)年2月
古写真についての斑鳩町民の記憶
車(ハイヤー)から降りたところか
町営結婚式場は旧北畠邸であった。
その他メモ
1964(昭和39)年9月の「広報いかるが」に、ー結婚式は町営式場でーとの見出しとともに結婚式場料金明細書がある。(当時の挙式料は500円,式場は1500円)
No.0049_0001
斑鳩三塔の道
結婚式の集合写真
1959(昭和34)年2月
町営結婚式場内で撮影
古写真についての斑鳩町民の記憶
樋口町長(当時)は、旧北畠邸(当時井上別邸)を所有していた井上氏から無償借用して、1594(昭和29)年10月町営結婚式場を開設した。[1]
「高砂」は、オープンリールを使用していた。町の職員が担当していた。
その他メモ
[1]『斑鳩の生活史:聖徳太子から1400年』亀井龍彦著 斑鳩文化協議会(1998)p.205
No.0029_0017
斑鳩三塔の道
式場中庭にて
1964(昭和39)年2月
古写真についての斑鳩町民の記憶
町営結婚式場は旧北畠邸。当時の所有者から斑鳩町が無償で借りて運営していた。[1]
町の職員が運営していた。
現在の写真
2024(令和6)年1月 写真グループ「写遊 鵤」撮影
「長屋門」(一部が部屋になっている門)を改築し、2014(平成26)年に、カフェとしてオープンした。
その他メモ
[1]『斑鳩の生活史:聖徳太子から1400年』亀井龍彦著 斑鳩文化協議会(1998)p.205
No.0049_0014
斑鳩三塔の道
町営結婚式場に到着
1959(昭和34)年2月
古写真についての斑鳩町民の記憶
旧北畠邸だった町営結婚式場は、大きい長屋門を構えた屋敷で庭も広かった。[1]
その他メモ
[1]『斑鳩町史』史料編 p.95
No.0049_0013
斑鳩三塔の道
お色直しの衣装で
1959(昭和34)年2月
式場の玄関にて
古写真についての斑鳩町民の記憶
当時はお色直しでベールを付けた。
小物類は髪結いや着付けの仕事をしていた大叔母の持ち物だった。
その他メモ
NHK連続テレビ小説(朝ドラ)「虎に翼」で、寅子の結婚式(1940年頃)の際、新婦がベールを付けていた。
No.0049_0012
斑鳩三塔の道
町営結婚式場の庭にて
1959(昭和34)年2月
古写真についての斑鳩町民の記憶
旧北畠邸だった町営結婚式場は、大きい長屋門を構えた屋敷で庭も広かった。[1]
その他メモ
[1]『斑鳩町史』史料編 p.95
No.0049_0011
斑鳩三塔の道
自宅の玄関を出る
1959(昭和34)年2月
古写真についての斑鳩町民の記憶
写真を見ると感慨深く感じるが、本人は朝早くからの準備に疲れ、特に覚えていない。(同時代に結婚式を挙げた方の話しより)
No.0049_0006
斑鳩三塔の道
式場への出発前
準備が整い、式場へ向かう前に自宅で
古写真についての斑鳩町民の記憶
この頃(昭和34年)は自宅で花嫁の準備を整え式場に向かった。
No.0049_0003
その他
花嫁の着付け
1957(昭和32)年 12月
古写真についての斑鳩町民の記憶
当時は花嫁の支度は自宅で整えた。着付けの仕事をしていた大伯母はあちらこちらの家へ出向いていたのだろう。
No.0049_0010
斑鳩三塔の道
自宅を出る花嫁を見送る
No.0049_0008
斑鳩三塔の道
着付け中
1959(昭和34)年 2月 自宅にて
古写真についての斑鳩町民の記憶
結婚式当日は5時に起床し先ず入浴。顔にどうらん(ドーラン)を塗られ、かつらを付ける前に沢山のヘアピンで地毛を留められ痛かった。その上重たいかつらを付け、身体は着物で締め付けられしんどかった。(昭和40年に結婚した方の話し)
No.9000_0001
竜田街道 - 西
西里民家のはざまから仰ぐ五重塔
古写真についての斑鳩町民の記憶
斑鳩町の古い民家には柿の木が植えられていることが多い。
その他メモ
『いかるがの心』創元社 1969(昭和44)年刊より
No.9000_0019
斑鳩三塔の道
いかるが古道
東大門から南に続く道
現在の写真
2024(令和6)年4月 末浪 博已氏撮影
その他メモ
『いかるがの心』創元社 1969(昭和44)年刊より
No.9000_0013
竜田街道 - 東
富の小川
富雄川のほとりの地蔵さん
その他メモ
『いかるがの心』創元社 1969(昭和44)年刊より
古写真の地蔵は、現在は業平橋の河川敷に新しい歌碑「君が代は富の小川の水すみて千年をふとも絶えじとぞ思ふ」と並んでいる。[1]
[1]『そぞろ歩き・斑鳩の里(Ⅳ)』p.54より
No.9000_0011
竜田街道 - 西
西里の道
農作業
古写真についての斑鳩町民の記憶
この写真撮影の時、土塀の曲がり角から突然、小車にもみ殻をこぼれるように載せて、のろのろと路地を進んでくる腰を曲げた白髪の老人をみかけた。そして突然土塀の間の小さい板戸開くと吸い込まれたようにきえてしまった。[1]
その他メモ
[1]『いかるがの心』創元社 1969(昭和44)年刊より
No.9000_0026
斑鳩三塔の道
大黒屋
かつて虚子が旅装を解いた旅館「大黒屋」
古写真についての斑鳩町民の記憶
高浜虚子著『斑鳩物語』の舞台
その他メモ
『いかるがの心』創元社 1969(昭和44)年刊より
No.9000_0023
斑鳩三塔の道
旅愁ひとしお
法輪寺への道より法起寺、若草山を眺める
その他メモ
『いかるがの心』創元社 1969(昭和44)年刊より
No.9000_0018
斑鳩三塔の道
くさむらの中の五重塔
現在の写真
2024(令和6)年4月 末浪 博已氏撮影
その他メモ
『いかるがの心』創元社 1969(昭和44)年刊より
No.9000_0028
斑鳩三塔の道
岡本集落
その他メモ
『いかるがの心』創元社 1969(昭和44)年刊より
No.9000_0032
竜田街道 - 東
法隆寺門前
「立入測量禁止」の立て看板
その他メモ
『ほろびゆく大和』創元社 1968(昭和43)年刊より
No.9000_0030
太子学問の道
成福寺堂裏
その他メモ
『いかるがの心』創元社 1969(昭和44)年刊より
No.9000_0029
太子学問の道
成福寺付近
「上宮跡」と村人が伝える礎石か
その他メモ
『いかるがの心』創元社 1969(昭和44)年刊より
No.9000_0027
斑鳩三塔の道
岡本集落
蒼古な気分があふれている
その他メモ
『いかるがの心』創元社 1969(昭和44)年刊より
No.9000_0024
斑鳩三塔の道
牧歌的風景がそのままに
法起寺と岡本の集落
その他メモ
『いかるがの心』創元社 1969(昭和44)年刊より
No.9000_0022
斑鳩三塔の道
法輪寺三重塔再建工事
宮大工西岡常一氏の仕事場
その他メモ
『いかるがの心』創元社 1969(昭和44)年刊より
1975(昭和50)年3月 創建当初の様式にて竣工された。
No.9000_0021
斑鳩三塔の道
法輪寺三重塔礎石群
写真奥の建物は類焼を免れた金堂。
古写真についての斑鳩町民の記憶
1944(昭和19)年7月21日 落雷により三重塔は焼失してしまった。
その他メモ
一重方形の基壇に四間四面の自然石の礎石と四天柱の礎石がぽつんと残されている。
『いかるがの心』創元社 1969(昭和44)年刊より
No.9000_0020
斑鳩三塔の道
天満池より五重塔を望む
現在の写真
2024(令和6)年4月 末浪 博已氏撮影
その他メモ
『いかるがの心』創元社 1969(昭和44)年刊より
No.9000_0017
太子学問の道
成福寺付近の空々漠々たる松並木
法起寺へと続いていた松並木の一部
現在の写真
2016年撮影
1991(平成3)年に上宮遺跡公園が整備された。
公園入口の松並木は聖徳太子が通った道を再現して植えられた。
その他メモ
『いかるがの心』創元社 1969(昭和44)年刊より
松並木は1950年代まで残っていたと語られています。[1]
[1]『斑鳩大辞典』p.193
No.9000_0015
太子学問の道
成福寺
松の木に囲まれた成福寺
その他メモ
『いかるがの心』創元社 1969(昭和44)年刊より
No.9000_0014
竜田街道 - 東
富の小川より矢田丘陵を望む
富雄川のほとりの道標
古写真についての斑鳩町民の記憶
業平橋東詰にあったが、現在は高安天満宮内にある。
その他メモ
『いかるがの心』創元社 1969(昭和44)年刊より
道標
上に如意輪観音が刻まれ、右三井・松の尾、左たつた・大阪と読めます。[1]
[1]『斑鳩大事典』p.143
No.9000_0010
竜田街道 - 西
みささき陵(藤ノ木古墳)
調査される前の様子
その他メモ
西里の迷路のような路地を抜けて、集落のつきたところにある。
当時は桃畑になっていた。
『いかるがの心』創元社 1969(昭和44)年刊より
No.9000_0009
斑鳩三塔の道
並松の参道
松のこも巻き
その他メモ
『いかるがの心』創元社 1969(昭和44)年刊より
松のこも巻きは江戸時代から大名庭園で行われてきたとされる害虫駆除法で、マツカレハの幼虫(マツケムシ)を除去する方法のひとつ。マツカレハの中齢幼虫は、冬になると、地上に降り、枯れ葉の中などで越冬する習性を持つ。このため、11月頃、マツやヒマラヤスギの幹の地上2mほどの高さに、藁でできた「こも(菰)」を巻きつける。
No.9000_0008
斑鳩三塔の道
土壁の道
西里
古写真についての斑鳩町民の記憶
写真前方右は法隆寺西大門
現在の写真
2019年撮影
その他メモ
『いかるがの心』創元社 1969(昭和44)年刊より
No.9000_0007
斑鳩三塔の道
西里
法隆寺といえば柿の木
現在の写真
2024(令和6)年2月撮影
その他メモ
『いかるがの心』創元社 1969(昭和44)年刊より
No.9000_0006
斑鳩三塔の道
孤独の谷間
西里路地集落
古写真についての斑鳩町民の記憶
西里の集落は、大工棟梁などが住んでいた。
その他メモ
『いかるがの心』創元社 1969(昭和44)年刊より
No.9000_0005
斑鳩三塔の道
法起寺への道から法隆寺の金堂と五重塔を見る
早春。雪の日、梅の花咲く法起寺への道から
その他メモ
『いかるがの心』創元社 1969(昭和44)年刊より
No.9000_0004
太子学問の道
中宮寺跡
古写真についての斑鳩町民の記憶
江戸期に掘られた溜池があったが、1984(昭和59)年頃に一部を残して埋められ更地になった。
その他メモ
『いかるがの心』創元社 1969(昭和44)年刊より
2013(平成25)年から行ってきた整備工事が完成し、2018(平成30)年5月13日に史跡公園がオープンした。
北側の休憩所からは斑鳩三塔が一望できる。
No.9000_0003
斑鳩三塔の道
法起寺を行く
春の法起寺
その他メモ
『いかるがの心』創元社 1969(昭和44)年刊より
No.9000_0002
太子学問の道
中宮寺跡の東側
中宮寺跡より法隆寺五重塔を望む
古写真についての斑鳩町民の記憶
江戸期に掘られた溜池があったが、1984(昭和59)年頃に一部を残して埋められ更地になった。
現在の写真
2024(令和6)年4月 末浪博巳氏撮影
その他メモ
『いかるがの心』創元社 1969(昭和44)年刊より
2013(平成25)年から行ってきた整備工事が完成し、2018(平成30)年5月13日に史跡公園がオープンした。
北側の休憩所からは斑鳩三塔が一望できる。
No.9000_0025
斑鳩三塔の道
法起寺付近
新池の堤から
その他メモ
『いかるがの心』創元社 1969(昭和44)年刊より
No.9000_0031
斑鳩三塔の道
鳩ぐらのある民家
写真右下は鳩穴
その他メモ
『ほろびゆく大和』創元社 1968(昭和43)年刊より
写真中央の線は本の ”のど” 部分
No.9000_0016
太子学問の道
方至石
松の馬場石標
古写真についての斑鳩町民の記憶
上宮公園前の地蔵群と一緒に置かれていたが、いつの間にか成福寺のフェンス内に移されている。
その他メモ
『いかるがの心』創元社 1969(昭和44)年刊より
石標に刻まれている文字
従是 南幅四間四尺 長二十八間余
従是 北幅二間五尺 長四十四間余
従是 東西幅四間 長十四間四余
延享二乙丑年十二月 日 成福寺比丘快雄建之
この1745年の石標は成福寺から北に約50メートルの所に建てられ、そこから北向き(法起寺の方)に総延長130メートルほど松並木があったことを記しています。[1]
[1]『斑鳩風土記』より
No.0034_0229
竜田街道 - 東
組み立て体操
「2002(平成14)年~2003(平成15)年 アルバム」より
古写真についての斑鳩町民の記憶
体に付いた砂が演技のたびに、服や口、目に入って大変だった。
その他メモ
危険が伴うことから、スポーツ庁は「組体操による事故の防止について」を通知した(2016年3月)
そのため、現在では運動会の演目から外されるようになってきた。
No.0045_0002
斑鳩三塔の道
秋祭り
祭りの太鼓台を引く人たち
1960(昭和35)年頃
古写真についての斑鳩町民の記憶
この頃、三町会館の前に法隆寺郵便局があった。
その他メモ
ハッピ姿の人々。
No.0042_0020
竜田街道 - 東
中学校入口にて
斑鳩中学校の教職員
1954(昭和29)年頃
古写真についての斑鳩町民の記憶
先生方は朝礼時など、何か間違ったことを言ったとき「もとへ」と言っていた。
No.0045_0015
斑鳩三塔の道
婚礼
お嫁入りの道具を乗せたトラック
1955(昭和30)年頃
古写真についての斑鳩町民の記憶
紅白の紐を掛け嫁入り道具を運んだ。
荷物を見れば婚礼があることがわかった。
南大門の直前を車が通っていたが道が狭かったので、対向車はバックさせるのに苦労した。
婚礼の荷物を積んだトラックは後戻りしてはいけなかった。(縁起が悪い)
対向車にバックしてもらうため、あらかじめタバコなどを用意していた。
その他メモ
荷台には布団と長持(衣類や寝具の収納に使用された長方形の木箱)、足踏式ミシンが乗せられている。
家紋と王寺タクシーと書かれた幕でトラックの荷台を覆っている。
嫁入り道具は「竜田日進運送」のトラックで運んだ。ご近所の方々が荷物を見に出てきて見送ってくれた(川西町から斑鳩に嫁いだ方の話)
No.0046_0003
興留道
卒園式
双葉幼稚園の卒園式
1960(昭和35)年頃
古写真についての斑鳩町民の記憶
ミッション系の私立幼稚園。講堂は教会としても使用した。
その他メモ
昭和40年頃、バイパス(現大和高田斑鳩線)の建設に伴い北葛城郡河合町聖和台に移転した。
2017(平成29)年3月 廃園。
No.0042_0018
竜田街道 - 東
学芸会
小学校5年生の時の劇
1952(昭和27)年
古写真についての斑鳩町民の記憶
学芸会も盛んだったが、校内おはなし大会もあり抑揚(よくよう)、間の取り方などを教えてもらった。4年生の時は「杜子春」を読んだ。
その他メモ
校章、ライト
No.0042_0016
竜田街道 - 東
なかよしグループ
講堂前でなかよしグループと一緒に
1951(昭和26)年
古写真についての斑鳩町民の記憶
昭和26年 4年生の時から給食が始まった。給食用のコップを入れる袋を縫ってもらって持っていった。(長い)パンと脱脂粉乳だけだった。
火曜日は脱脂粉乳の代わりに蜆(しじみ)の味噌汁が、木曜日は葛を茹でて黒蜜をかけたものが出るので、とても楽しみだった。
その他メモ
本格的に給食が開始されたのは給食室が竣工した1958(昭和33)年9月から[1]
[1]『斑鳩小学校創立百周年記念誌』より
No.0042_0011
興留道
卒園式
双葉幼稚園の卒園式
1947(昭和22)年3月
古写真についての斑鳩町民の記憶
キリスト教の幼稚園だったので、日曜学校も開かれていた。
その他メモ
後列メガネをかけている方は浜田ふく先生のご主人。
この頃は斑鳩町に私立の双葉幼稚園があった。
昭和40年頃、バイパス(現大和高田斑鳩線)の建設に伴い北葛城郡河合町聖和台に移転した。
2017(平成29)年3月 廃園。
No.0042_0008
当麻道
晴れ着
晴れ着を着て自宅付近で
1947(昭和22)年
古写真についての斑鳩町民の記憶
行事の時はよく着物を着た。
自宅は現在より北側にあったが、国道25号線建設のため立ち退きになった。当時は床下を切ってコロで移動させた。そのため床が低く年数が経ってくるに従い、ゆがみがでてきて建具と柱に隙間ができてしまった。
その他メモ
昭和10年代半ば生まれの女の子の写真には着物姿のものが多く残されている
No.0042_0007
竜田街道 - 東
ナタネ畑の前で
1年生の教室をバックに先生と一緒に撮った写真
1950(昭和25)年
古写真についての斑鳩町民の記憶
教室の東側でナタネやサツマイモを育てていた。
当時は運動場を囲むように学年ごとに教室があった。
昭和26年頃、真っ赤な毛糸のカーディガン(?)を着てきた子がいてビックリした。毛糸は珍しかったので触らせてもらったことを鮮明に覚えている。
No.0042_0005
竜田街道 - 西
お稚児さん
龍田神社のお祭りの時、お稚児さんになった
古写真についての斑鳩町民の記憶
各大字(おおあざ)で1人ずつお稚児さんとして祭りに参加した。衣装は神社で貸してくれた。
竜田神社より竜田街道を西に向かって行った所に野畑書店があり、その向かい辺りに「ふきのや」という食事処があった。当時は食堂が珍しかった。
No.0042_0003
竜田川道
母と
家の近くの竜田川畔で
1944(昭和19)年頃
古写真についての斑鳩町民の記憶
物が少ない時代だったが、母がお人形の着物,羽織,ハンドバッグなどを作ってくれた。お人形の髪の毛は生糸(きいと)を使っていた。
このお人形は母の手作りではなく、父の仕事関係の方からの頂き物だと思う。
その他メモ
絵本
No.0042_0002
竜田街道 - 西
ボールを抱えて
自宅付近で
1949(昭和24)年頃
古写真についての斑鳩町民の記憶
当時、小学校2年生でドッジボールが流行っていた。自宅近くに紙を作っている工場があり、広い空き地があったので暗くなるまで外で遊んでいた。
1年生の頃は、なわとびをして遊んだ。ゴム製のなわとびで、長なわ遊びもした。
その他メモ
下駄を履いている
No.0040_0001
斑鳩三塔の道
農作業
牛を使って農作業
古写真についての斑鳩町民の記憶
この頃の農家には土間の横に牛小屋があった。
昭和19年落雷の為、三重塔が焼失してしまった頃を思い出す。1時間程で全焼してしまった。
その他メモ
牛、鋤、法輪寺(昭和50年に再建されるまで三重塔はなかった)
No.0038_0002
竜田街道 - 西
新校舎の前で
斑鳩小学校の西隣に完成した校舎
1948(昭和23)頃
古写真についての斑鳩町民の記憶
1947(昭和22)年の学制改革に伴い、昭和23年4月新校舎が完成した。
それまでは町内3か所に仮校舎が分散していた。仮校舎で使用していた机とイスは各自で新校舎に運んだ。
その他メモ
前列のメガネをかけている方が初代校長笹谷良造氏。
No.0038_0001
竜田街道 - 西
斑鳩中学校教職員
仮校舎前での集合写真
1947(昭和22)年
古写真についての斑鳩町民の記憶
前列左から4人目が初代校長 笹谷良造氏。
斑鳩中学校校歌の作詞者でもある。
現在の写真
2024(令和6)年6月 写真グループ「写遊 鵤」撮影
この建物は龍田町役場➞斑鳩中学校➞竜田保育園と変遷している。建物は建て替えられたが、古写真の職員の後ろに映っている石の門柱は場所は移動しているものの現在も残っている。
No.0037_0025
竜田街道 - 東
授業風景
『卒業記念寫眞 1954』より
古写真についての斑鳩町民の記憶
卒業アルバム撮影のためにお行儀よくしていた。
各自、教科書を持っていたと思う。昭和27年頃から筆箱が出回り始めた。それまでは紙の箱だった。
昭和16年生まれなので子どもの数が多かったが、数年後には父親が戦争に行ってしまった影響で、しだいに出生率が低下し、子どもの数が少なくなった。
その他メモ
教室内の様子
No.0037_0024
竜田街道 - 東
遊具の前で
『卒業記念寫眞 1954』より
古写真についての斑鳩町民の記憶
悪いことをするとバケツを持って廊下に立たされる時代だった。
その他メモ
木製遊具、バット
No.0037_0021
竜田街道 - 東
木製遊具の前で
『卒業記念寫眞 1954』より
古写真についての斑鳩町民の記憶
この頃の男の子は小学生でも制服を着ていた。
中学生になると詰襟だが、小学生の制服は襟が立っていないのが一般的だった。
昭和27年頃から靴を履くようになった。それまでは藁草履(わらぞうり)が一般的だった。
No.0037_0018
竜田街道 - 東
なわとび
『卒業記念寫眞 1954』より
古写真についての斑鳩町民の記憶
卒業アルバムのために撮影した。
当時は「なわとび」が流行していた。これより数年前の1950(昭和25~26)年頃は「ゴムとび」や「てまりつき」をして遊んだ。
「とうちゃんかあちゃん とってんかー 用事もないのにようとらん」 「テンプルちゃんが凧あげて 電信柱にひっかけて・・・」などと歌いながら遊んだ。
その他メモ
両端の子が大縄(なわ)を持っている。
No.0037_0017
竜田街道 - 東
理科室での実験
『卒業記念寫眞 1954』より
古写真についての斑鳩町民の記憶
1クラスの人数は50人ほどだった。
No.0037_0012
竜田街道 - 東
発表会の記念写真
劇が評価され代表になった1年生の時の思い出の写真
1948(昭和23)年
古写真についての斑鳩町民の記憶
この場所は当時の1年生の教室の南側。
後列中央が魚谷先生。先生の家にはピアノがあり、よく見せてもらいに行った。当時ピアノがある家は珍しかった。
この写真は学校の学芸会ではない。学校の学芸会はクラス単位で行い、演目は先生が決めていた。
その他メモ
履物が様々なのは役柄によるもの。
No.0037_0015
その他
藁仕事
縄を綯(な)うために、藁を叩いて柔らかくしている。
古写真についての斑鳩町民の記憶
農閑期(秋の収穫の後)になると縄綯いの準備をしていた。
No.0037_0013
その他
農家
祖父が縄を綯(な)っている
古写真についての斑鳩町民の記憶
手前に井戸、その奥は井戸水を濾(こ)すためのもの。
右手の建物はニワトリ小屋。
その他メモ
農作業の道具
No.0037_0008
竜田街道 - 東
表彰状
合唱コンクールで賞をいただいた
1952(昭和27)年
古写真についての斑鳩町民の記憶
県下で一番になった。前列は6年生、後列は5年生が並んでいる。竹谷先生が写っている。
No.0037_0006
その他
春日神社で
目安の子どもたち
1948(昭和23)年頃
古写真についての斑鳩町民の記憶
お化粧もしてもらった。
一番後ろにいる方に踊りを教えてもらった。
No.0037_0004
竜田街道 - 東
クラス写真
小学3年生の時のクラス写真
1950(昭和25)年
古写真についての斑鳩町民の記憶
服装は手作りのもんぺで、ゴム草履(ぞうり)やゴム靴もあったが、わら草履(ぞうり)を履いていた。
学校の廊下は糠(ぬか)で磨いてピカピカにした。わら草履は滑りやすいので、よく転んで笑われた。
窓拭きは桟(窓枠)にまたがってしていた。
No.0037_0002
竜田街道 - 東
集合写真
講堂前にて
1948(昭和23)年頃
古写真についての斑鳩町民の記憶
この頃はわらじを履いていたので、写真のような草履(ぞうり)でも嬉しかった。
その他メモ
男の子は坊主頭
No.0037_0001
竜田街道 - 東
演劇
講堂前にて
1950(昭和25)年頃
古写真についての斑鳩町民の記憶
目安の子どもたち。何か行事があると踊りなどを披露した。目安内に同級生が5人ほどいた。
衣装は各家庭のお母さんが準備してくれた。目安には衣装を作るのが得意な方がいてよく作ってもらった。
その他メモ
講堂の窓から身を乗り出して見ている男の子たち。お母さんに抱かれている赤ちゃん。
No.0002_5053
興留道
いざ出発
トラックの荷台に乗って町内会旅行へ出発
1953(昭和28)年5月
古写真についての斑鳩町民の記憶
当時はバスがなく、運送会社のトラックを借りて町内会(自治会)の旅行に出かけた。
この日進運送会社は竜田にあった。
No.0002_5052
興留道
こいのぼり
双葉幼稚園
1953(昭和28)年5月
古写真についての斑鳩町民の記憶
制服はなく私服で通っていた。
制作した「こいのぼり」を持って園庭で写した写真。
その他メモ
この頃は斑鳩町に私立の双葉幼稚園があった。
昭和40年頃、バイパス(現大和高田斑鳩線)の建設に伴い北葛城郡河合町聖和台に移転した。
2017(平成29)年3月 廃園。
No.0034_0275
竜田街道 - 東
斑鳩小学校平面図
1976(昭和51)年当時の様子
『昭和51年度 学校要覧』より
その他メモ
校庭の真ん中に校舎がある。プールがふたつあった頃の様子がわかる。
トイレが校舎内ではなく独立している。用務員室もあった。
No.0034_0059
竜田街道 - 東
運動会
親子競技
「1949(昭和24)年~1956(昭和31)年アルバム」より
古写真についての斑鳩町民の記憶
この頃は仕事着かスーツしか無かったので出かける時はスーツを着て行った。
No.0034_0052
竜田街道 - 東
運動会
「1949(昭和24)年~1956(昭和31)年アルバム」より
古写真についての斑鳩町民の記憶
この頃は裸足が当たり前だった。昭和31年に運動用の薄い足袋ができたので、それを穿いて走った。
昭和20年生まれの私が5年生の時だった。
No.0034_0018
竜田街道 - 東
職員集合写真
戦後の職員集合写真
「1942(昭和17)年~1944(昭和19)年アルバム」より
古写真についての斑鳩町民の記憶
記念撮影は講堂前で行われた。二宮金次郎の像があった。この像は1981(昭和56)年に鉄筋三階建ての本館が出来たときに移動した。
昭和20年の夏休みが終わって学校に行くと、様子が変わっていた。
児童は洋服を着ていた。制服はなかったが、制服めいたものはあった。
その他メモ
講堂前
「1942(昭和17)年~1944(昭和19)年アルバム」に混入。
No.0034_0013
竜田川道
写生
竜田川にて
「1942(昭和17)年~1944(昭和19)年アルバム」より
古写真についての斑鳩町民の記憶
写生会は1970年代位まであった。法隆寺にも行った。
1952(昭和27)年 教育制度が変わり、勉強の内容や世の中が明るくなったように感じた。
級長・副級長の呼び方も、委員・副委員に変わった。
その他メモ
「1942(昭和17)年~1944(昭和19)年アルバム」に混入。
アルバム台紙に「昭和31年11月竜田川にて」と書かれている。
No.0034_0011
竜田街道 - 東
職員集合写真
「1942(昭和17)年~1944(昭和19)年アルバム」より
古写真についての斑鳩町民の記憶
校長先生は軍服を着ていた。他の先生方も軍服調のカーキ色の服を着ていた。
「教育勅語」が講堂の奥にあった。
No.0034_0008
竜田街道 - 東
職員集合写真
「1942(昭和17)年~1944(昭和19)年」アルバムより
古写真についての斑鳩町民の記憶
昭和43年頃「二宮金次郎像」の近くでボール遊びをしていた時、像にボールが当たってしまい先生に怒られた。
その頃はこの写真のように木は大きくなくて講堂が良く見えた。
その他メモ
軍服姿の職員が多い。
アルバムの台紙に昭和18年3月現在と書かれている。
No.0034_0003
竜田街道 - 東
旧校舎
木造校舎の北側
No.0034_0001
竜田街道 - 東
斑鳩小学校 旧校舎
古写真についての斑鳩町民の記憶
チャイムが鳴り、休み時間が終了すると手洗い,うがいをする児童で水飲み場がいっぱいになった。
その他メモ
合成写真
木造校舎の北側に鉄筋コンクリート2階建ての本館が見えるので、1970年代後半だと思われる。
No.0034_0285
竜田街道 - 東
村立斑鳩尋常高等小学校
校舎校地図
古写真についての斑鳩町民の記憶
1917(大正6)年 龍田町外2か村立斑鳩尋常高等小学校となる。[1]
その他メモ
[1]『創立百周年記念誌』p.2沿革概要より
この図には大正六年四月(昭和十六年九月二十六日記入)「組合立斑鳩尋常高等小学校校舎校地図」と書かれている
No.0034_0063
竜田街道 - 東
大玉運び
「1949(昭和24)年~1956(昭和31)年アルバム」より
その他メモ
フィールドでは大玉運びが行なわれている。トラックでも競技をしているもようで先生と児童が見える。
No.0034_0188
竜田街道 - 東
新校舎
南館
「1965(昭和40)年~1966(昭和41)年 新校舎増築写真集アルバム」より
古写真についての斑鳩町民の記憶
木造校舎ばかりだったが、新しく白くてきれいな鉄筋コンクリートの新館ができた。
この校舎は3、4年生用として使われることになっていたので完成が楽しみだった。
その後次々と新館ができて学校の景色が変わっていった。
No.0034_0184
竜田街道 - 東
新校舎増築工事
「1965(昭和40)年~1966(昭和41)年 新校舎増築写真集」より
古写真についての斑鳩町民の記憶
木造校舎ばかりだったが、新しく白くてきれいな鉄筋コンクリートの新館ができた。
この校舎は3、4年生用として使われることになっていたので完成が楽しみだった。
その後次々と新館ができて学校の景色が変わっていった。
No.0034_0157
竜田街道 - 東
運動会
「1949(昭和24)年~1956(昭和31)年アルバム」より
古写真についての斑鳩町民の記憶
右奥に見える煙突の煙は、精麦工場の煙だと思う。
その他メモ
先生は靴をはいているが、児童は裸足
No.0034_0156
竜田街道 - 東
運動会
開会式
「1949(昭和24)年~1956(昭和31)年アルバム」より
古写真についての斑鳩町民の記憶
この頃は正月(1月1日)は登校日だった。このように運動場に整列して校長先生から新年の挨拶があり、リンゴやミカンをもらって帰った。
その他メモ
女性教諭は運動会でもスカートをはいている。
No.0034_0107
竜田街道 - 東
学芸会
「1949(昭和24)年~1956(昭和31)年アルバム」より
その他メモ
アルバムの台紙に「昭和31年度 学芸会 ピアノ開き」と書かれている。
同じアルバムの写真だが、0034_0089と比べると、一文字幕,袖幕が違っている。新調されたのだろうか?
No.0034_0103
竜田街道 - 東
図画
協同作業中
「1949(昭和24)年~1956(昭和31)年アルバム」より
古写真についての斑鳩町民の記憶
学校には鐘が釣ってあり、用務員さんがその鐘を叩いてチャイムにしていた。
用務員さんは家族で住み込んでいた。
その他メモ
教室の隅に鍬(すき)が立てかけてある。
絵の具、パレット、筆。
アルバムの台紙に「昭和30年度 図工科研究会」と書かれている。
No.0034_0100
竜田街道 - 東
授業中
図工の時間
「1949(昭和24)年~1956(昭和31)年アルバム」より
古写真についての斑鳩町民の記憶
1952(昭和27)年頃 教室にカーテンが付くようになった。
1950(昭和25)~1951(昭和26)年頃にはナイロンが出はじめた。
1966(昭和41)年頃 椅子は1人用だったが、机は2人用で木製だった。席替えで仲の良くない子と一緒になると大変だった。(鉛筆や消しゴムなどがはみ出るとけんかになることもあった)
その他メモ
やかん、パレット、二人用木製机。
アルバム台紙に「昭和30年度 図工科研究会」と書かれている。
No.0034_0077
竜田街道 - 東
学芸会
講堂にて劇の発表
「1949(昭和24)年~1956(昭和31)年アルバム」より
その他メモ
「昭和九年度卒業生寄付」と書かれた垂れ幕のようなものが見える。
アルバム台紙に「4年生」と書かれている。
No.0034_0049
竜田街道 - 東
運動会
「1949(昭和24)年~1956(昭和31)年アルバム」より
古写真についての斑鳩町民の記憶
昭和20年代後半からは児童数が多かった(1クラス50人ほどで各学年4クラスあった)ので、全校では1000人を越えていた。
そのため、お遊戯などフィールドで行うものとトラックでの競技が同時に行われていた。
その他メモ
女性の先生はスカートをはいている
ちょうちんブルマ着用
No.0034_0037
竜田街道 - 東
運動会
1956(昭和31)年10月頃
「1949(昭和24)年~1956(昭和31)年アルバム」より
古写真についての斑鳩町民の記憶
スラックスのような長ズボンをはいていた。
その他メモ
木造校舎、万国旗
No.0034_0026
竜田街道 - 東
バク転
バク転の練習
「1949(昭和24)年~1956(昭和31)年アルバム」より
古写真についての斑鳩町民の記憶
体育の授業でバク転、前宙の練習をした。
その他メモ
現在は怪我が怖くて教えていない。
マット、木造校舎
No.0034_0276
竜田街道 - 東
斑鳩小学校平面図
1980(昭和55)年 当時の様子
『昭和55年度 学校要覧』より
その他メモ
東西にプールがある。郷土室や郷土資料室もあったようだ。
No.0034_0263
竜田街道 - 東
遊具
卒業アルバム『斑鳩小学校 1975』より
(昭和50年)
古写真についての斑鳩町民の記憶
新校舎増築が行なわれていた頃は、工事の関係で遊具の場所が時々変わっていた。
No.0034_0260
竜田街道 - 東
斑鳩小学校 本館の入口
正面玄関
卒業アルバム『斑鳩小学校 1970』より
(昭和45年)
古写真についての斑鳩町民の記憶
この頃は児童数が増え、廊下も職員室になって、先生同士の顔も見えなかった。
職員室前の廊下にドアがあって、開けると先生方の机が並んでいた。児童数の増加と共に教員の数も増えていたので「〇〇先生はどこにいますか?」と聞かなければわからないほどだった。
その他メモ
この年1970(昭和45)年は「万国博覧会」が大阪で開催されており、5,6年生は遠足で学校から連れて行ってもらった。
学校を休んで個人的に行っている子もいた。パビリオンのスタンプを集めては学校で見せ合った。
No.0034_0170
竜田街道 - 東
新校舎増築工事
「1965(昭和40)年~1966(昭和41)年 新校舎増築写真集」より
古写真についての斑鳩町民の記憶
小学校1,2年の頃は木造校舎だった。3年生の時南館ができた。在学中の6年間に新しい校舎ができていった。
その他メモ
工事用重機
No.0034_0163
竜田街道 - 東
運動会
ダンス
「1949(昭和24)年~1956(昭和31)年アルバム」より
古写真についての斑鳩町民の記憶
お昼ごはんは保護者と一緒に食べた。新高梨は日持ちがするので籾殻(もみがら)の中で保存して運動会の日まで取っておいた。みんなで食べるといつもより美味しかった。
運動場の南側にも校舎があった。
No.0034_0116
竜田街道 - 東
運動会
くす玉割り
「1949(昭和24)年~1956(昭和31)年アルバム」より
古写真についての斑鳩町民の記憶
くす玉からはハトが出てきた。
その他メモ
くす玉に鳩を入れておくのは難しいと思われる。
No.0034_0082
竜田街道 - 東
学芸会
合奏
「1949(昭和24)年~1956(昭和31)年アルバム」より
その他メモ
木造の机、オルガン、木琴。
アルバムの台紙に4年生と書かれている。
No.0034_0072
竜田街道 - 東
運動会
徒競走
「1949(昭和24)年~1956(昭和31)年アルバム」より
古写真についての斑鳩町民の記憶
テントは無く校舎の一角に来賓席があった。
この写真では来賓席で児童が応援している姿が見える。
その他メモ
スーツ姿の男性、和服姿の女性
No.0034_0064
竜田街道 - 東
運動会
大玉運び
「1949(昭和24)年~1956(昭和31)年アルバム」より
No.0034_0271
竜田街道 - 東
正門と本館
卒業アルバム『斑鳩小学校 1980』より
(昭和55年)
古写真についての斑鳩町民の記憶
正門前がこのようになる前は、用務員室の前にクジャクが一羽いた。ヤギもいた。
その他メモ
1981(昭和56)年の学校要覧には、この南側に新たに3階建ての本館ができている。
その後、この写真の建物は取り壊され、1993(平成5)年頃「はとぽっぽ広場」として整備された。
No.0034_0114
竜田街道 - 東
ハト小屋
「1949(昭和24)年~1956(昭和31)年アルバム」より
古写真についての斑鳩町民の記憶
昭和40年代はアヒルも飼っていた。講堂とシミズ文具店の間に小さな庭があり、アヒルの池があった。たくさんのアヒルが放し飼いされていた。アヒル小屋があったように思う。
No.0034_0195
竜田街道 - 東
新校舎
階段
「1965(昭和40)年~1966(昭和41)年 新校舎増築写真集」より
古写真についての斑鳩町民の記憶
小学校1,2年の頃は木造校舎だった。3年生の時南館ができた。在学中の6年間で新しい校舎ができていった。
No.0034_0300
竜田街道 - 東
講堂
平面図
古写真についての斑鳩町民の記憶
昭和45年頃、舞台近くにアコーディオンや楽器がしまってあった。
講堂の南側を間仕切りして第2音楽室や図書室にしていた。
No.0034_0299
竜田街道 - 東
講堂
側面図
古写真についての斑鳩町民の記憶
昭和40年代は講堂で映画会があった。「半魚人」「サリーちゃん」などを見た覚えがあるが、殆どが教育的な内容だった。
講堂の近くに臭いトイレがあった。
昭和50年代前半に取り壊された。
No.0034_0296
竜田街道 - 東
講堂設計図
古写真についての斑鳩町民の記憶
斑鳩尋常高等小学校の講堂は1928(昭和3)年に完成した。[1]
斑鳩町となった当時の斑鳩町役場は講堂の西端にあった。
その他メモ
[1]『創立百周年記念誌』p.2沿革概要より
No.0034_0284
竜田街道 - 東
はとぽっぽ広場
『平成20年度 学校要覧』より
古写真についての斑鳩町民の記憶
平成5年頃、本館入口前を整備するにあたって、名称の応募があった。斑鳩小学校の校章はマダラハトなので、「はとぽっぽ広場」と決まったと記憶している。
その他メモ
円形ベンチ 時計
No.0034_0277
竜田街道 - 東
斑鳩小学校平面図
1981(昭和56)年 当時の様子
『昭和56年度 学校要覧』より
No.0034_0262
竜田街道 - 東
校舎
卒業アルバム『斑鳩小学校 1975』より
(昭和50年)
古写真についての斑鳩町民の記憶
新校舎の間に見える平屋の木造建物は給食室で、いつもいい匂いが漂っていた。
No.0034_0267
竜田街道 - 東
プール
卒業アルバム『斑鳩小学校 1975』より
(昭和50年)
No.0034_0266
竜田街道 - 東
準備体操
プールに入る前に運動場で準備体操
卒業アルバム『斑鳩小学校 1975』より
(昭和50年)
古写真についての斑鳩町民の記憶
この頃は児童数が多く(この年の1年生は9クラスあった)プールサイドでは狭くて準備運動ができなかったため運動場で行った。
No.0034_0265
竜田街道 - 東
プール
卒業アルバム『斑鳩小学校 1975』より
(昭和50年)
No.0034_0264
竜田街道 - 東
プール
プールの授業
卒業アルバム『斑鳩小学校 1975』より
(昭和50年)
古写真についての斑鳩町民の記憶
昭和40年代は雨の日でもプールの授業があった。飛び込みの練習もした。狭かった記憶がある。
白い塩素の錠剤を撒いていた。それを取って遊んだ思い出がある。
その他メモ
1970
No.0034_0249
竜田街道 - 東
運動会
「2002(平成14)年~2003(平成15)年アルバム」より
その他メモ
プログラム テント 色別対抗得点版
アルバムの台紙に「H.15年度運動会」と書かれている。
No.0034_0248
竜田街道 - 東
運動会
「2002(平成14)年~2003(平成15)年 アルバム」より
その他メモ
プログラム テント 4色の得点版
アルバムの台紙に「H.15年度運動会」と書かれている。
No.0034_0246
竜田街道 - 東
運動会
「2002(平成14)年~2003(平成15)年 アルバム」より
その他メモ
スローガン「心を一つにファイト一発」
アルバムの台紙に「H.15年度運動会」と書かれている。
No.0034_0247
竜田街道 - 東
運動会
「2002(平成14)年~2003(平成15)年 アルバムよ」り
その他メモ
スローガン「心を一つにファイト一発」
アルバム台紙に「H.15年度運動会」と書かれている。
No.0034_0203
竜田街道 - 東
給食
机を合わせて皆でいただきまーす
「1979(昭和54)年アルバム」より
古写真についての斑鳩町民の記憶
アルミ製の食器が定番だった。その後プラスチックになった。
昭和41年頃は木の机に給食用の青いビニールのナプキン(ランチョンマット)を敷いていた。週末に給食袋に入れて持って帰った。昭和43~44年頃にお盆を使うようになった。
クジラの肉(クジラのオーロラ煮など)がよく出た。後にマグロのオーロラ煮として給食の人気メニューになった。
平成5~6年頃には空き教室を「ランチルーム」に改造し、時々は「ランチルーム」で給食をいただいた。
できたばかりの頃は、汚さないよう先生に注意された。
その他メモ
水筒
No.0034_0192
竜田街道 - 東
建築中の新校舎
「1965(昭和40)年~1966(昭和41)年 新校舎増築写真集アルバム」より
No.0034_0189
竜田街道 - 東
新校舎増築工事
「1965(昭和40)年~1966(昭和41)年 新校舎増築写真集」より
古写真についての斑鳩町民の記憶
木造校舎ばかりだったが、新しく白くてきれいな鉄筋コンクリートの新館ができた。
この校舎は3、4年生用として使われることになっていたので完成が楽しみだった。
その後次々と新館ができて学校の景色が変わっていった。
No.0034_0187
竜田街道 - 東
新校舎増築工事
「1965(昭和40)年~1966(昭和41)年 新校舎増築写真集」より
古写真についての斑鳩町民の記憶
南館が完成した1968(昭和43)年頃からは運動会の写真を3階の窓から撮っていたと思う。
No.0034_0186
竜田街道 - 東
男子トイレ
新校舎のトイレ
「1965(昭和40)年~1966(昭和41)年 新校舎増築写真集アルバム」より
古写真についての斑鳩町民の記憶
旧校舎時代の男子トイレは溝があるだけだった。
1966(昭和41)年頃までは、ポットン便所で汲み取りが来ていた。
No.0034_0185
竜田街道 - 東
新校舎増築工事
「1965(昭和40)年~1966(昭和41)年 新校舎増築写真集」より
古写真についての斑鳩町民の記憶
南館が完成した1968(昭和43)年頃からは運動会の写真を3階の窓から撮っていたと思う。
No.0034_0025
竜田街道 - 東
みんなで「うんてい」
「うんてい」で体力作り
「1949(昭和24)年~1956(昭和31)年アルバム」より
古写真についての斑鳩町民の記憶
体育の授業でも「うんてい」をしていた。
1966(昭和41年)頃「うんてい」は人気があって、いつも数珠つなぎになっていた。苦手な私は途中で飛び降りてしまい、後ろの人から文句を言われた。
その他メモ
木造校舎
No.0034_0030
竜田街道 - 東
中学生
相撲
「1949(昭和24)年~1956(昭和31)年アルバム」より
古写真についての斑鳩町民の記憶
当時帽子を被っていたのは中学生だった。
その他メモ
木造校舎のバットレス(控え壁)、傘
No.0034_0033
竜田街道 - 東
講堂内部
「1949(昭和24)年~1956(昭和31)年アルバム」より
その他メモ
アルバム台紙に「昭和31年度 音楽研究会」と書かれている。
No.0034_0035
竜田街道 - 東
音楽会
1956(昭和31)年 音楽研究会
「1949(昭和24)年~1956(昭和31)年アルバム」より
その他メモ
木琴 マイク
No.0034_0081
竜田街道 - 東
学芸会
劇の衣装を身に着けた児童たち
「1949(昭和24)年~1956(昭和31)年アルバム」より
その他メモ
渡り廊下、劇の小道具と思われる「北風」のうちわ。
アルバムの台紙に4年生と書かれている。
No.0034_0089
竜田街道 - 東
学芸会
演目「はなごてん」
「1949(昭和24)年~1956(昭和31)年アルバム」より
No.0034_0092
竜田街道 - 東
学芸会
演目「うたごよみ」
「1949(昭和24)年~1956(昭和31)年アルバム」より
No.0034_0097
竜田街道 - 東
学芸会
「1949(昭和24)年~1956(昭和31)年アルバム」より
No.0034_0104
竜田街道 - 東
ヘリコプター
ヘリコプターを見に集まった人々
1956(昭和31)年1月21日
「1949(昭和24)年~1956(昭和31)年アルバム」より
古写真についての斑鳩町民の記憶
大阪毎日新聞社による中町・五番子ども会表彰式のため、ヘリコプターが飛来し運動場に下りた。
その他メモ
藁すすき。
アルバムの台紙に「昭和30年度 子供会表彰」と書かれている。
No.0034_0105
竜田街道 - 東
挨拶
子供会表彰のあいさつ
「1949(昭和24)年~1956(昭和31)年アルバム」より
古写真についての斑鳩町民の記憶
朝礼台がコンクリートだった。そこで胴馬をして遊んだ。
朝礼台が高く(腰を降ろしても足が地面に届かないほど)登ると落ちそうで少し怖かった。
その他メモ
マイク。
アルバムの台紙に「昭和30年度 子供会表彰」と書かれている。
No.0034_0106
竜田街道 - 東
ヘリコプター
1956(昭和31)年1月21日
「1949(昭和24)年~1956(昭和31)年アルバム」より
古写真についての斑鳩町民の記憶
大阪毎日新聞社による中町・五番子ども会表彰式のため、ヘリコプターが飛来し、運動場に下りた。
その他メモ
アルバム台紙に「昭和30年度 子供会表彰」と書かれている。
No.0034_0108
竜田街道 - 東
ピアノ開き
「1949(昭和24)年~1956(昭和31)年アルバム」より
古写真についての斑鳩町民の記憶
ピアノは吉川五郎さんより寄贈された。
学芸会の合奏の時はピアノの上手な子がピアノを担当していた。
グランドピアノが活躍していた。
その他メモ
アルバムの台紙に「昭和31年度 学芸会 ピアノ開き」と書かれている。
No.0034_0110
竜田街道 - 東
ピアノ開き
「1949(昭和24)年~1956(昭和31)年アルバム」より
その他メモ
ピアノは吉川五郎さんより寄贈された。
アルバムの台紙に「昭和31年度 学芸会 ピアノ開き」と書かれている。
No.0034_0112
竜田街道 - 東
保護者と一緒に
就学前の健康診断か
1955(昭和30)年11月撮影
「1949(昭和24)年~1956(昭和31)年アルバム」より
古写真についての斑鳩町民の記憶
二人用の木の机だった。境界線を決めて使っていた。机に境界線が描かれていたり、削ったような線がついていたりした。
この写真は保護者と何かしていたと思う。
その他メモ
教室内の様子(音符を書いた紙などが貼られている)
No.0034_0113
竜田街道 - 東
体重測定
就学前の健康診断か
「1949(昭和24)年~1956(昭和31)年アルバム」より
No.0034_0118
竜田街道 - 東
運動会
運動場いっぱいに広がってダンス
「1949(昭和24)年~1956(昭和31)年アルバム」より
古写真についての斑鳩町民の記憶
音楽はレコードではなく、先生がオルガンを弾いていた。
1940年代に小学生だった。授業が始まる前に「スイスイ」という遊びを運動場狭しとしていた。学年の分け隔てなく遊び、それが楽しみで学校に通っていた。
写真左奥のクスノキの下がベース基地になっていた。木登りする子もいた。
その他メモ
クスノキ、木造校舎
No.0034_0161
竜田街道 - 東
運動会
就学前児童か
「1949(昭和24)年~1956(昭和31)年アルバム」より
その他メモ
お母さんは和服、男の子は坊主頭で女の子はおかっぱ頭。
No.0034_0167
竜田街道 - 東
斑鳩小学校 正門
「1949(昭和24)年~1956(昭和31)年アルバム」より
No.0034_0180
竜田街道 - 東
新校舎増築作業
「1965(昭和40)年~1966(昭和41)年 新校舎増築写真集」より
No.0034_0169
竜田街道 - 東
新校舎増築工事
「1965(昭和40)年~1966(昭和41)年 新校舎増築写真集」より
その他メモ
工事用重機
No.0034_0168
竜田街道 - 東
新校舎増築工事
「1965(昭和40)年~1966(昭和41)年 新校舎増築写真集」より
No.0034_0028
竜田街道 - 東
なわとび
「1949(昭和24)年~1956(昭和31)年 アルバム」より
No.0034_0002
竜田街道 - 東
旧校舎
木造校舎の東側に鉄筋コンクリート3階建ての校舎(中館)が見える
No.5000_0001
太子学問の道
上宮の松の馬場
『広報いかるが』1997(平成9)年1月号 掲載記事「50年の足跡」より
撮影年不明
古写真についての斑鳩町民の記憶
法起寺までの道を松の馬場と呼んだ。
成福寺は、現在の上宮遺跡公園(法隆寺南3丁目)の南にあった。
1960年頃までは、松の落ち葉「コクマ」をお風呂の焚き付けにした。
子どもたちは松の木に登って遊んだり、見張り台にしたりしていた。
その他メモ
太子が葦垣宮から岡本宮へ学問に通われた一本道の両側には松並木があり「松ノ馬場」と呼ばれた。現在、幸前旧村の中央を南北に通っているのが、古代の道であると伝える。[1]
葦垣宮跡に嘉祥2(849)年に建てられた寺院を成福寺といい、聖徳太子が没した地という。[2]
松並木は、成福寺から北へ伸びていた。[3]
[1]『斑鳩の生活史:聖徳太子から1400年』亀井龍彦著 斑鳩文化協議会(1998)P.227
[2]『法隆寺辞典』髙田良信著 柳原出版(2007)P.306参考
[3]「傳説の太子道に就いて」久留春年著P.103参考(『夢殿』第九冊 佐伯啓造編 鵤故郷舍(1933)所収)
- 撮影時期
- 1960年代頃
- 撮影場所
- 法隆寺南3丁目地内
No.0004_0016
竜田街道 - 東
運動会
開会式
卒業アルバム『たびだち-1984』より
No.0002_0025
竜田街道 - 東
学芸会の日
学芸会の当日
1961(昭和36)年2月
古写真についての斑鳩町民の記憶
弟の学芸会に日に教室まで付いて行って撮影した。
現在は校内に自由に入ることはできないが、当時は自由に勝手に教室まで入ることができた。
私は19歳だった。
その他メモ
掲示物
No.0004_0011
竜田街道 - 東
運動会
1982(昭和57)年10月
古写真についての斑鳩町民の記憶
黄、赤、白、青の4色対抗だった。
No.0029_0009
竜田街道 - 東
新年子ども大会
作成した凧と一緒に
1972(昭和47)年1月
古写真についての斑鳩町民の記憶
5年生の時は手作りの凧、6年生は竹馬を作った。1時間目から6時間目の授業中に作った。3学期の楽しみだった。
担任の川端先生が男女別に撮影してくれた。
後ろの校舎は現在運動場に南面している校舎が建つ前の木造の校舎。
冬はスカートの代わりにズボンやタイツなど自由にはいていた。
その他メモ
木造校舎
No.0004_0033
竜田街道 - 東
プール
プールの授業
卒業アルバム『たびだち-1984』より
古写真についての斑鳩町民の記憶
1983(昭和58)年頃、プールが2つあった。東は小学校のプールで西は中学校のプールだった。
西のプールは深くて古かった。高学年にならないと入れなかった。25メートルプールだったと思う。
掃除をしていたらメダカが泳いでいたことがあった。
No.0004_0031
竜田街道 - 東
運動会
鼓笛隊による運動会の入場行進
卒業アルバム『たびだち-1984』より
No.0004_0051
当麻道
稲のハセがけ
米作り体験学習
卒業アルバム『たびだち-1984』より
古写真についての斑鳩町民の記憶
田植えから刈り取りまでを体験した。学校から歩いて田んぼまで行った。
No.0004_0057
当麻道
脱穀
米作り体験学習
卒業アルバム『たびだち-1984』より
No.0002_5018
竜田街道 - 東
かけっこ
就学前児のかけっこか
1952(昭和27)年10月
No.0004_0015
竜田街道 - 東
斑鳩小学校 校舎
卒業アルバム『たびだち-1984』より
古写真についての斑鳩町民の記憶
校舎の前に生垣がない。1985(昭和60)年の卒業アルバムには植えられている。
No.0004_0014
竜田街道 - 東
斑鳩小学校
卒業アルバム『たびだち-1984』より
古写真についての斑鳩町民の記憶
当時は北側に出入り口があり、卒業式当日は教室から北口に出て在校生に見送ってもらった。
No.0004_0017
竜田街道 - 東
運動会
フォークダンス
卒業アルバム『たびだち-1984』より
古写真についての斑鳩町民の記憶
学年は関係なくフォークダンス「マイムマイム」などを踊った記憶がある。
「斑鳩音頭」も踊った。
No.0004_0034
竜田街道 - 東
プール
プールの授業
卒業アルバム『たびだち-1984』より
古写真についての斑鳩町民の記憶
1983(昭和58)年頃、プールが2つあった。東は小学校のプールで西は中学校のプールだった。
西のプールは深くて古かった。高学年にならないと入れなかった。25メートルプールだったと思う。
掃除をしていたらメダカが泳いでいたことがあった。
暑い日のプールは最高だった。
No.0004_0036
竜田街道 - 東
プール
プールの授業
卒業アルバム『たびだち-1984』より
古写真についての斑鳩町民の記憶
1983(昭和58)年頃、プールが2つあった。東は小学校のプールで西は中学校のプールだった。
西のプールは深くて古かった。高学年にならないと入れなかった。25メートルプールだったと思う。
掃除をしていたらメダカが泳いでいたことがあった。
その他メモ
校舎
No.0034_0083
竜田街道 - 東
学芸会
「1949(昭和24)年~1956(昭和31)年アルバム」より
No.0004_0063
竜田街道 - 東
授業中
卒業アルバム『たびだち-1984』より
古写真についての斑鳩町民の記憶
この写真より10年ほど前の昭和40年代は、児童数が多く教室いっぱいに机が並んでいたため、参観日には子どもの教科書をのぞいて見ていた。
昭和40年代後半は県下一の児童数(2174人)だった。
その他メモ
教室内の様子 テレビ
No.0004_0025
竜田街道 - 東
運動会
ダンボール積み競争
卒業アルバム『たびだち-1984』より
古写真についての斑鳩町民の記憶
一番高く積んだら勝ち! 風が吹くと倒れてしまうので大変だった。
No.0004_0028
竜田街道 - 東
運動会
応援合戦
卒業アルバム『たびだち-1984』より
No.0002_0022
竜田街道 - 東
運動会
リレー
1958(昭和33)年10月
その他メモ
ランニング姿の男児、女児はブルマの子もショートパンツの子もいる
入場門 校舎
No.0002_0023
竜田街道 - 東
運動会
リレー競争 ゴール!
1958(昭和33)年10月
その他メモ
入場門 校舎
No.0002_0024
竜田街道 - 東
運動会
応援席の児童
1958(昭和33)10月
古写真についての斑鳩町民の記憶
この頃の女児の髪型は「おかっぱ」の子が多かった。
その他メモ
校舎 遊具
No.0002_0030
竜田街道 - 東
学芸会の日
本番直前の児童
1961(昭和36)年3月
古写真についての斑鳩町民の記憶
教室から講堂前に移動し、いよいよ本番! 発表するのが嬉しかった。
その他メモ
皆、嬉しそうな表情をしている
No.0002_0029
竜田街道 - 東
学芸会の日
本番直前の児童
1961(昭和36)年3月
古写真についての斑鳩町民の記憶
教室から講堂前に移動し、いよいよ本番! 発表するのが嬉しかった。
その他メモ
緊張ではなく嬉しそうな表情をしている
No.0004_0039
当麻道
田植え
米作り体験学習
卒業アルバム『たびだち-1984』より
古写真についての斑鳩町民の記憶
田植えの前に農家の方から説明があった。
No.0004_0040
当麻道
田植えの準備
卒業アルバム『たびだち-1984』より
古写真についての斑鳩町民の記憶
昭和50年代は米作りの体験学習があった。
No.0004_0041
当麻道
田植え
機械を使わずに田植え
卒業アルバム『たびだち-1984』より
古写真についての斑鳩町民の記憶
昭和50年代は米作りの体験学習があった。
No.0029_0007
竜田街道 - 東
運動会
リレー競争
1971(昭和46)年10月
古写真についての斑鳩町民の記憶
色別対抗戦だったので一生懸命走り、大きな声で応援した。
その他メモ
木造校舎 万国旗 テント
No.0029_0008
竜田街道 - 東
運動会
色別対抗リレー
1971(昭和46)年10月
古写真についての斑鳩町民の記憶
1組-赤、2組-白、3組-黄、4組-青、5組-緑、6組-ピンク(?)と色別に分かれていた。
男女ともにトレパン、トレシャツ時代。ブルマは中学生になってからだった。
応援席は自治会ごとで、ご近所の方々からも応援してもらった。
現在の北館が新館だった頃の話です。
その他メモ
木造校舎 新校舎 テント
No.0004_0013
竜田街道 - 東
校舎前にて
担任の先生と
その他メモ
遊具 旧校舎
No.0004_0012
竜田街道 - 東
音楽会
合奏
1984(昭和59)年3月1日
No.0029_0006
竜田街道 - 東
入学式
講堂前で集合写真
1968(昭和43)年4月
古写真についての斑鳩町民の記憶
この頃は入学式や卒業式出席の正装は着物と羽織だった。
入学式、卒業式、お楽しみ会、映画会、発表会など行事の殆どは講堂で行われた。特別な場所を利用できる楽しみや緊張感があった。
木製の4人掛けのベンチタイプの椅子だった。
クラス全員で撮影することができなかったため、男女別に撮影した。学年ごとの集合写真は必ず「二宮金次郎」の前だった。
講堂の中に図工室があった。図工室は第2次ベビーブームの影響で、のちに教室になっていった。
昭和50年頃まで農協の人が講堂に来て、子ども貯金が行われていた(200~500円くらい)
毎月みんなで並んでいたことを覚えている。郵便局か銀行の人が来ていると思っていた。
小学校に隣接して中学校があったが、中学生達との交流はなかった。
その他メモ
二宮金次郎像 現在は正門脇に移っている
No.0034_0209
竜田街道 - 東
教室の様子
劇の一コマか?
古写真についての斑鳩町民の記憶
昭和41年頃は石炭ストーブだった。石炭当番があり、用務員室のような所に取りに行った。
昭和50年頃からエネルギーは石油に変わった。
2年生の教室のストーブが火を噴き、用務員さんが走ってきたことがあった。
その他メモ
ストーブ、机をコの字型に並べ、中央を広くしている
くす玉 おりがみの飾りつけ 習字
No.0002_0026
竜田街道 - 東
学芸会の日
学芸会当日の児童
1961(昭和36)年3月
古写真についての斑鳩町民の記憶
弟の学芸会の日、弟について教室まで行った。
現在は校内に自由に出入できないが、当時は自由に勝手に入ることができた。
私は19才だった。
現在の写真
現代の写真の投稿テスト
その他メモ
石炭ストーブ、木製の机と椅子、男子ばかり、教室内の掲示物
No.0002_0027
竜田街道 - 東
学芸会の日
学芸会当日の児童
1961(昭和36)年3月
古写真についての斑鳩町民の記憶
弟の学芸の日、弟について教室まで行った。
現在は校内に自由入ることができないが、当時は自由に勝手に教室に入ることができた。
私は19歳だった。
その他メモ
木製の机と椅子 男子ばっかり 教室内の掲示物
No.0035_0007
竜田街道 - 東
運動会
1969(昭和44)年9月28日
古写真についての斑鳩町民の記憶
保護者の応援席は学区ごとに分かれていた。
その他メモ
保護者の応援席に「昭和団地」「稲葉」の学区名が見える。木造校舎の奥に鉄筋の校舎が見える。右側には給食室、その奥に精麦工場の煙突が見える。
No.0035_0010
竜田街道 - 西
文化祭
鼓笛隊とバトントワリング
1970(昭和45)年11月1日
古写真についての斑鳩町民の記憶
当時の公民館は役場の裏にあった。
No.0035_0008
竜田街道 - 東
運動会
紅白対抗競技
1969(昭和44)年9月28日
古写真についての斑鳩町民の記憶
全児童が紅白に分かれて対抗していた。リレーや組体操もあった。鈴割では中からハトが出てきた。
その他メモ
1968(昭和43)年頃、校庭でドッジボールをするための場所取りに朝早くから登校していた。
先生も口癖のように「校庭が狭い」と言っていた。
1790年頃には1200人ほどの児童がいたと思う。
No.0035_0006
竜田街道 - 東
運動会
1966(昭和41)年9月27日
古写真についての斑鳩町民の記憶
新校舎(南館)ができている。
その他メモ
給食室 その向こうには精麦工場の大きな煙突
No.0035_0005
竜田街道 - 東
運動会
1年生 だるま競争
1966(昭和41)年9月27日
古写真についての斑鳩町民の記憶
女の子が男の子にだるまをかぶせてリレーした。だるまの前後を逆にかぶせてしまい、応援席から笑いが起こり、恥ずかしかったことを覚えている。
だるまは先生の手作り。
学年によって玉入れ、組体操、リレーなどの競技があった。
その他メモ
東側校舎 給食室 精麦工場の煙突
No.0035_0004
竜田街道 - 東
運動会
1年生の花のバトンのお遊戯
1966(昭和41)年9月27日
古写真についての斑鳩町民の記憶
男女とも白のショートパンツだった。
その他メモ
テント 万国旗 北側校舎
No.0035_0003
竜田街道 - 東
運動会
一年生の花のバトンのお遊戯
1966(昭和41)年9月27日
古写真についての斑鳩町民の記憶
男女とも同じ白のショートパンツだった。
運動場から1年生の教室に入る通路に球状の遊具があり、それをめちゃくちゃにまわして遊んだ。小学3年生の時には無くなってしまった。
その他メモ
北側の校舎 テント 万国旗
No.0035_0009
竜田街道 - 東
バトントワリング
運動会でバトンクラブの児童がバトントワリングを披露
1970(昭和45)年10月
古写真についての斑鳩町民の記憶
お弁当の前か後に鼓笛隊と一緒に出場していた。バトンを落とさないかどうか、ドキドキしていた。
バトンクラブの練習は土曜日の昼から南館前でやっていた。
放課後の運動場は遊び放題だった。
昭和43年に竣工した北側の鉄筋三階建ての校舎が見える。
小学校1,2年の頃は木造校舎だった。3年生の時南館ができた。在学中の6年間で新しい校舎ができていった。
その他メモ
北側校舎 木造校舎の屋根の上にスピーカー テント 万国旗
この年1970(昭和45)年は「万国博覧会」が大阪で開催されており、5,6年生は遠足で学校から連れて行ってもらった。
学校を休んで個人的に行っている子もいた。パビリオンのスタンプを集めては学校で見せ合った。
No.0035_0001
竜田街道 - 東
入学式
1年2組 講堂での記念写真
1966(昭和41)年4月6日
古写真についての斑鳩町民の記憶
この頃は、親も一緒に写真を撮っていた。講堂の椅子は長椅子だった。
昭和50年頃まで農協の人が講堂に来て、子ども貯金が行われていた(200~500円くらい)
毎月みんなで並んでいたことを覚えている。郵便局か銀行の人が来ていると思っていた。
その他メモ
笹井校長先生、大倉ツル子先生、「育友会」の銘が入った緞帳
No.0033_0001
興留道
農作業小屋越しに走る電車
子どもたちを撮っていた時に、遠くに電車が走ったのをおさめた一枚
古写真についての斑鳩町民の記憶
この年(昭和48年)ディーゼルカーから電車に変わった。斑鳩荘苑内の公園に、最後の機関車の写真を撮りにくる子どもがいた。
この茶色の農業小屋手前に小さな池があり、ザリガニがいた。子どもたちはザリガニをスルメで釣っていた。
近くの川にはカメ・フナ・タニシもいて、子どもたちの良い遊び場だった。
自転車で走ってきて池や田んぼに落ちた子もいた。見えていないが小屋のそばに野つぼもあり、そこに落ちた子もいた。
現在は小屋も池も野つぼも無い。
その他メモ
子どものおもちゃ(手押し車?)
No.0022_0016
竜田街道 - 東
車の前で
父の勤め先の車の前で
現在の写真
2014年撮影
写真右側の路地を入った所が古写真が撮影された場所
当時と変わらぬ江戸時代からの家屋
その他メモ
古写真の左奥に見えるのは魚屋さん。魚屋さんのある通りが並松商店街。
No.0009_0009
当麻道
吉田寺
お寺の森の中に多宝塔が見える
1965(昭和40)年頃
古写真についての斑鳩町民の記憶
1950年代頃、吉田寺の南西にあたる小吉田と稲葉車瀬の境目の川で、フナを網ですくい家の用水に水をはっていっぱい飼った。10月の稲刈りが終わった頃フナは冬眠のため水草の下で寝かけているのでおもしろいようにすくえた。
その他、メダカ,カワエビ,アメンボ,ミズスマシ,ドジョウもいた。ドジョウは泥臭いので不人気だった。
現在の写真
現代の写真の投稿テスト
その他メモ
現在はバイパスが開通し宅地化が進んでいる。(注:ワークショップで採集した記憶であり、撮影した写真と話者の年代は異なります。)
No.0009_0005
竜田川道
三室山から見る住友住宅
開発された住宅地は、まだ空きがあった
1965(昭和40)年頃
その他メモ
田畑と住宅・建物が混ざりながら、向こうの山際まで続く。
住友住宅は稲葉西1丁目
No.0009_0007
竜田川道
建設中の厚生年金奈良いかるが荘
徐々に姿を現しつつあるいかるが荘
1965(昭和40)年頃
古写真についての斑鳩町民の記憶
1965年に開設。2010年頃取り壊され住宅地になった。昔は竜田川から眺めると八角形(六角形?)の塔が輝いて見えた。きれいな建物で何をするところだろうと思った。(注:ワークショップで採集した記憶であり、撮影した写真と話者の年代は異なります。)
No.0009_0006
竜田川道
三室山より斑鳩町を見る
農地が眼前に広がり、建物は遠くにまとまって見える
1965(昭和40)年頃
現在の写真
2024(令和6)年4月 末浪 博已氏撮影
その他メモ
三室山の標高82m
No.0009_0008
竜田川道
建設中の厚生年金奈良いかるが荘
展望台の屋根も少しずつ出来てきている
1965(昭和40)年頃
その他メモ
足場
No.0028_0001
竜田街道 - 東
斑鳩小学校教員
校舎を背に整列
古写真についての斑鳩町民の記憶
講堂は小・中共用していた。
プールは無い。水泳の授業も無いので桜池や天満池、竜田川や富雄川で泳いでいた。
4教室あった。職員用の給食室に井戸ひとつ。児童はお弁当。
暖房なし。トイレは汲み取りで近所のお百姓さんが取りに来た。
その他メモ
薮田校長、中田先生、魚谷先生
校舎、二宮尊徳像、手前に方形の窪み?
No.0022_0042
竜田街道 - 東
ごきげん!
建物前でポーズを決めて
その他メモ
のぼり、サンダル
No.0022_0035
竜田街道 - 東
祭りの日
斑鳩神社秋祭りの装束に身を包んで
その他メモ
御神燈の提灯
No.0022_0001
竜田街道 - 東
大きな俵と
俵の前で
その他メモ
炭俵、三脚?
No.0022_0002
竜田街道 - 東
母と荷物と自転車と
母とともに
現在の写真
2014年撮影
当時と変わらぬ江戸時代からの家屋
その他メモ
積荷
No.0022_0003
竜田街道 - 東
木馬に乗って
愛馬と愛犬
その他メモ
軒先、積荷
No.0022_0011
竜田街道 - 東
並松商店街の賑わいを背に
並松商店街から南に折れたところで
古写真についての斑鳩町民の記憶
右奥に見えるのは魚屋さん。この先左右(東西)が並松商店街。
手押し運搬車が見える。
現在の写真
2014年撮影
古写真の撮影場所は、右に折れる道(南方向)に曲がった西側
No.0022_0013
竜田街道 - 東
家族写真
西側を通る道で、親子揃って
No.0022_0021
竜田川道
紅葉狩り
和服に割烹着姿
その他メモ
茣蓙、湯呑、学生服
竜田川畔
No.0022_0028
竜田川道
紅葉狩り
竜田川畔で紅葉狩りを楽しみながら食事
その他メモ
リヤカー、薬缶
No.0022_0025
竜田川道
紅葉狩り
竜田川畔で鍋を囲む
古写真についての斑鳩町民の記憶
竜田公園
その他メモ
ビール、銚子、鍋、コンロ、取り鉢、砂糖壺、卵、茣蓙、薬缶、湯呑
No.0022_0026
竜田川道
紅葉狩り
竜田川畔で鍋を囲む
その他メモ
卵を割る子ども、茣蓙、鍋、コンロ、湯呑、取り鉢
No.0022_0027
竜田川道
紅葉狩りのひととき
竜田川畔で食事
その他メモ
座布団、茣蓙、ビール、鍋、コンロ、茶碗、取り鉢
No.0022_0039
竜田川道
紅葉狩り
竜田公園に駐輪されている自転車や木々を背にして
その他メモ
竜田川畔の公園
No.0022_0036
竜田川道
紅葉狩り
竜田川の畔に茣蓙を敷いて
その他メモ
薬缶、鍋、櫃、ビール、ガスボンベ、コンロ、茣蓙
No.0022_0034
竜田川道
紅葉狩り
竜田川畔にて
その他メモ
対岸の桟敷に座る人影、紅白の幕?
No.0022-0020
竜田川道
紅葉狩り
竜田川畔で鍋を囲む
その他メモ
紅葉と料理とお酒で満喫
茣蓙、ビール、日本酒(初時雨)、徳利、薬缶、鍋、コンロ、砂糖壺、湯呑
No.0022_0033
竜田川道
紅葉狩り
龍田公園の小道にて
その他メモ
左奥に建物
No.0022_0018
竜田川道
竜田川畔にて
竜田川に架かる橋を背にして
その他メモ
木の橋(紅葉橋?)
No.0022_0031
竜田川道
竜田公園
紅葉狩り
古写真についての斑鳩町民の記憶
家族みんなで楽しいひと時
その他メモ
竜田川畔、プロパンガスボンベ、茣蓙、ビール、徳利、薬缶、取り鉢
No.0022_0030
竜田川道
紅葉狩り
竜田川公園にて、行楽
その他メモ
桟敷の中
提灯、茣蓙(ござ)、幕、座布団
No.0032_0001
興留道
法隆寺駅南口
法隆寺駅南口、家族で
その他メモ
夏、若木が葉をつけ、下草が茂っている。
No.0032_0002
興留道
法隆寺駅の近くで
四人でおすまし
古写真についての斑鳩町民の記憶
踏切には踏切番がいた。
その他メモ
イナヤ、生活具、裸電球、溝、掛け竿、椅子、縁台が写っている。
No.0018_0092
竜田川道
紅葉狩り
お弁当をひろげて秋の一日を楽しんでいる
古写真についての斑鳩町民の記憶
この近くには水車小屋があり米搗きをしていた。2014年頃までその名残の「水車や」という商店があった。
その他メモ
紅葉の生育や色づきには、空気が動かない、乾燥しない、陽だまりが大切。今は川沿いの国道168号線を車が走るので、紅葉が美しくなくなってしまった。
奥(南、下流)に念仏橋がかすかに写る。
No.0018_0038
竜田川道
自宅前
自宅前の子どもたち
その他メモ
乳母車、提灯
No.0018_0003
竜田川道
ブランコに乗って
楓樹の木立の間に念仏橋が見える公園で遊ぶ
古写真についての斑鳩町民の記憶
川の畔に鉄棒やブランコがあり、子どもたちの遊び場だった。
その他メモ
念仏橋、遊具
No.0018_0001
竜田川道
自転車に乗って
自転車の荷台に立って
1976(昭和51)年
古写真についての斑鳩町民の記憶
竜田川は今のように低くなく、ブランコや鉄棒で遊んだり川に入ったりでき良い遊び場だった。
その他メモ
右の木立の間から見える橋が念仏橋
遊具
No.0018_0002
竜田川道
鉄棒あそび
竜田川沿いの公園で遊ぶ
古写真についての斑鳩町民の記憶
念仏橋上流の公園には鉄棒やブランコがあり、自然に恵まれた恰好の遊び場だった。
その他メモ
中央奥(南南東)に念仏橋が見える
遊具、あずまや
No.0002_5048
その他
芋ほり
富雄川の堤防沿いの畑でじゃがいもを収穫している。
1952(昭和27年)6月
古写真についての斑鳩町民の記憶
子どももみんなでお手伝いをしていた。
この付近では、バッタ・キリギリスが捕れた。同世代の子ども達と一緒に富雄川で泳いだ。フナ釣りもした。
父親は近くの富雄川で投げ網をしてハエ,フナ,ナマズ,タイワンドジョウを採り食卓にのぼっていた。
その他メモ
女の子が花を持っている。
No.0002_5047
その他
芋ほり
芋ほりをする少年のほかにも、畑仕事をする大人の姿がみえる。
1952(昭和27年)6月
古写真についての斑鳩町民の記憶
富雄川堤防に、芋畑を作っていた。当時、堤防で畑をしている人が多くいた。
夏休みの宿題のためキリギリスを採りに行った。この頃既に「ホルマリン注射キット」が売られていた。ピンでコルク台に刺して箱に入れて学校に持って行った。
父親は近くの富雄川で投げ網をしてハエ,フナ,ナマズ,タイワンドジョウを採り食卓にのぼっていた。
No.0002_5045
竜田川道
ボート遊び
竜田川でボート遊び。オールを漕ぐ少年の後ろに、川べりに張り出した桟敷席が続く。
1965(昭和40年)頃
No.0002_5041
竜田街道 - 東
法隆寺遠望
1958(昭和33年)8月
No.0002_5040
竜田街道 - 東
法隆寺遠望
法隆寺西南の道からは、築地塀、五重塔が見える
1958(昭和33)年8月
No.0002_5039
斑鳩三塔の道
天満池堤防にて
先生と一緒に
1956(昭和31)年3月
その他メモ
天満池堤防から法隆寺五重塔遠望
No.0002_5037
竜田川道
紅葉狩り
竜田川にて紅葉狩り(宴会)
1954(昭和29)年11月
No.0002_5031
竜田川道
竜田公園
兄弟で
1953(昭和28)年11月
No.0002_5026
竜田川道
竜田公園
1952(昭和27)年11月
古写真についての斑鳩町民の記憶
堂山の東側は深みになっていて飛び込みをして遊んだ。少年には適したスペースだった。
水が綺麗で家族で蛍狩りに行った。蚊帳を吊って蛍を放った。魚もたくさんいた。
泳ぎの練習も竜田川で先輩に教えてもらった。浅瀬から徐々に深いところで泳げるようになった。
高校生の頃には守谷池の上池,中池で泳いだ。水が綺麗だった。
お弁当を持って紅葉狩りにも出かけた。岸と川辺の段差がなかったので気軽に川遊びができた。
ボートにも乗った。
(注:ワークショップで採集した記憶であり、撮影した写真と話者の年代は異なります。)
その他メモ
ボート
No.0002_5022
竜田川道
竜田公園
万国旗がめぐらされ、木陰では人々が弁当を広げている。
1952(昭和27)年11月
No.0002_5020
竜田街道 - 東
法隆寺参道
法隆寺参道にて。立札には「聖徳宗総本山 法隆寺大伽藍」の文字。
1952(昭和27)年11月
No.0002_5016
竜田街道 - 東
ムカデ競争
斑鳩小学校の運動会 靴を脱いで出番を待つ
1952(昭和27)年10月
No.0002_5014
竜田街道 - 東
運動会
斑鳩小学校の運動会で
1952(昭和27)年10月
No.0002_5011
竜田街道 - 東
斑鳩小学校での運動会
双葉幼稚園の園児達
1952(昭和27)年10月
古写真についての斑鳩町民の記憶
当時は小学校の運動会と一緒に行っていたのではないか?
No.0002_5010
竜田街道 - 東
運動会
斑鳩小学校の運動会で
1952(昭和27)年10月
No.0002_5009
イツボ川道
運動会の日
学校の近くで
1952(昭和27)年10月
No.0002_5001
竜田街道 - 西
龍田橋で
龍田橋(現竜田大橋)での記念撮影
1952(昭和27)年6月
No.0002_0021
興留道
パチンコ
天理軽便鉄道跡近くの田でパチンコ鉄砲をうつ少年。鳥でもねらっているのだろうか。
1957(昭和32)年10月
その他メモ
きっぷかばんをさげている
No.0002_0008
斑鳩三塔の道
法輪寺境内で遊ぶ子ども達
かくれんぼのじゃんけんぽん
1959(昭和34)年2月
古写真についての斑鳩町民の記憶
お寺の境内は子ども達の遊び場だった。
No.0002_0004
竜田街道 - 東
斑鳩小学校運動会
斑鳩小学校の運動会
1958(昭和33)年10月
古写真についての斑鳩町民の記憶
その他メモ
入場門 校舎
No.0002_5042
興留道
国鉄ディーゼルカー
1958(昭和33年)9月
No.0002_5043
興留道
国鉄ディーゼルカー
1958(昭和33年)9月
No.0002_5044
興留道
SL
法隆寺駅付近を走る
1958(昭和33年)9月
No.0002_5038
その他
野焼き
1955(昭和30)年1月
No.0002_5036
その他
増水した富雄川
1954(昭和29)年6月
No.0002_5035
その他
増水した富雄川
1954(昭和29)年6月
現在の写真
2023(令和5)年12月 写真グループ「写遊 鵤」撮影
No.0002_5007
興留道
秋祭り
法隆寺駅前広場で、祭り提灯の周りに子どもたちが集まっている。
1952(昭和27)年9月
その他メモ
着物で着飾っている女の子、洋装の子どもたち。
No.0002_5002
興留道
幼稚園へ
登園前になかよく並んで
1952(昭和27)年8月
古写真についての斑鳩町民の記憶
歩いて登園していた。東側(写真左側)には自転車預かり屋があった。近くに駄菓子屋もあり花火を買ったことを覚えている。
その他メモ
駅前の商店 自転車屋 「ライオン〇〇〇」の看板
No.0002_0002
興留道
国鉄ディーゼルカー
法隆寺駅から大和小泉駅の間は、見晴らしのよい田畑の車窓が続く
1958(昭和33)年
No.0005_0007
松尾山詣りの道
松尾山への登山道
松尾寺へ続く上り坂を振り返る
1967(昭和42)年頃
その他メモ
松、笹
No.0005_0006
竜田街道 - 東
家の近くで
お友達と
古写真についての斑鳩町民の記憶
法隆寺への参道のため、壁に松並木の影が映っている。
現在の写真
2014年撮影
2014(平成26)年とは思えない看板が残っている
その他メモ
古写真:消防団の防火ポスター、柵、手提げバッグ
No.0009_0010
竜田川道
三室山より舟戸方面を望む
神南の三室山に登り、王寺町舟戸の方を見る
1965(昭和40)年頃
その他メモ
三室山の標高は82m
No.0009_0004
竜田川道
竜田公園での出初式
No.0009_0003
竜田川道
出初式
No.0009_0002
竜田川道
岩瀬橋
岩瀬橋を通り、稲葉車瀬の集落へ向かう人
現在の写真
2023(令和5)年12月 写真グループ「写遊 鵤」撮影
その他メモ
バイパス工事に伴い2014年に架け替えられた。(注:ワークショップで採集した記憶であり、撮影した写真と話者の年代は異なります。)
No.0009_0001
竜田川道
竜田川の上流方面の光景
右手竜田川東岸に桟敷、川にはボートを浮かべ、楽しむ人々
その他メモ
中央に架かる紅葉橋と重なるように竜田大橋も見える。「つるや」の桟敷
No.0029_0004
興留道
みんな集まれー
まだ何もない造成地で
古写真についての斑鳩町民の記憶
昭和39年に造成され宅地化する前の様子。
第一地所(現興留5丁目)は造成してから売り出したので坪単価は高かった。
その他メモ
造成された土地。後ろの家並みは興留1丁目辺り。
No.0033_0004
興留道
嬉しい入学式の日
自宅前で愛車と
古写真についての斑鳩町民の記憶
昭和47年頃、初代ランサーを買った。大山などまでドライブに行った。夏休みには妻の帰省で九州まで行った。
法隆寺駅東側の踏み切りから南に続く道はこの頃まだ舗装されていなかった。
No.0033_0003
興留道
兄妹
自宅前で子ども達を撮った
古写真についての斑鳩町民の記憶
この頃の通勤は朝は5時半頃、帰りは10時~11時頃だった。遅いほうが混んでいて、王寺で降りる人が多かった。最終電車は王寺止まりなので、みんな走ってタクシー乗り場に急いだ。1番遅くなると1時間半ほど待つこともあった。
当時は、名古屋行きの急行列車が法隆寺を通っていたので利用した。
南口を利用していたので、飛び乗ったこともある(当時は改札が下にあったのでそのまま飛び乗ることができた)。
No.0033_0002
興留道
建設中の保育園と子ども達
建設中の南部第2保育園(現 あわ保育園)を背にして
古写真についての斑鳩町民の記憶
当時はあわ保育園が無かったので南部保育所(現在はない)に通っていた。
南部・西部保育所の合同運動会が健民グランドであった。
子ども達は田んぼで野球をして遊んでいた。
どこの柿が美味しいか(甘柿・渋柿)、またどこの柿は採っても怒られないかなど当時の子ども達はよく知っていた(写真の左向うに柿の木があった)。
その他メモ
左奥が建設中の南部第2保育園(現 斑鳩町立あわ保育園)。
No.0031_0005
興留道
クリスマス会
双葉幼稚園、劇の衣装姿の園児たち(年長組)
古写真についての斑鳩町民の記憶
劇の衣装は園で用意。
写真撮影された当時、斑鳩町にあった双葉幼稚園は、現在西大和ニュータウン(北葛城郡河合町星和台)に移転した。
2017(平成29)年3月 廃園。
No.0031_0004
興留道
お宮参り
素盞嗚神社へお宮参り
古写真についての斑鳩町民の記憶
興留の有名な神社。今でも毎日お参りしている。
その他メモ
鳥居、石灯籠
No.0031_0003
興留道
初詣
家族で素盞嗚神社に初詣
古写真についての斑鳩町民の記憶
拝殿前は松のみの門松だが、鳥居の前は松竹梅の門松だった。
その他メモ
注連飾り、門松、お供え物
No.0029_0005
興留道
砂利道
興留の通りにて
その他メモ
稲わら干し、舗装されていない道、割烹着、電柱(木製)
No.0029_0003
興留道
砂遊び
砂場で遊ぶ子どもたち
古写真についての斑鳩町民の記憶
魚市場の横に砂場があった。
その他メモ
左の木枠で囲まれたところを砂場にしている。
木枠の外は粗い砂利敷き。
No.0029_0002
興留道
道の補修
道の補修作業を見つめる幼児「何してんのん?」
その他メモ
ブロック塀、ゴム長靴、シャベル(スコップ)、箒(ほうき)
幼児の立つところが、手前のセメント舗装から地道の境目か?
No.0029_0001
興留道
七五三
七五三の晴れ着姿
その他メモ
着物、帯、用水桶
No.0027_0001
竜田街道 - 東
ボンネットバスの前で
1950年代当時走っていたバス。左手後ろは法隆寺の松並木
古写真についての斑鳩町民の記憶
法隆寺の駐車場のボンネットバスの前で。母のお手製の服とヘアスタイルが懐かしいです。
No.0027_0002
竜田街道 - 東
並松商店街の売り出し仮装
商店街の人たちが仮装した
古写真についての斑鳩町民の記憶
テレビも無く商店街の仮装行列がとても楽しみでした。刀をさしているのは父です。
法隆寺西(西里)の子どもで、せがんで親に連れて行ってもらって見物したという人もいた。
その他メモ
暖簾、看板、電灯
並松商栄会
No.0027_0003
竜田街道 - 東
店先で
並松にあった岡田荒物店の前で
古写真についての斑鳩町民の記憶
父は愛用のこの運搬車(自転車)で配達をしていた。
この店の2件隣りには提灯屋があったらしい。
現在の写真
2014年撮影
岡田荒物店はこれより西寄り(写真の手前側)にあった。 廃業後、取り壊され更地になっている。
その他メモ
古写真:店の商品
No.0022_0010
竜田街道 - 東
秋祭り
ふとん太鼓に乗って
古写真についての斑鳩町民の記憶
この日は雨模様だったか。提灯がビニールで覆われている。
小さい子どもは、紐を巻きつけて太鼓台に乗るのは揺れて怖いからいやだと言っていたが、成長とともに乗れるようになった。
西里・本町・東里に太鼓台があった。並松は新しく町になったとき三郷の方からもらった。
その他メモ
斑鳩神社秋大祭、ふとん太鼓台
No.0022_0006
竜田街道 - 東
母に抱かれて
あいにくの雨の祭の日
古写真についての斑鳩町民の記憶
この向かい側に天婦羅を売っている店があり、ソース味のたこ焼きも売っていた。たこ焼きは少しの間おばあちゃんがやっていた。
菓子「あんまき」の店もあった。
その他メモ
斑鳩神社秋大祭、傘
No.0025_0003
竜田街道 - 東
町営観光自動車駐車場
現在(2010年代)も変わらず利用されている
古写真についての斑鳩町民の記憶
樋口町長時代(在任期間:1951~1966年)にできた。元は田んぼ。修学旅行のバスがよく停まっていた。
自転車の練習にうってつけだった。
その他メモ
ドアミラー車、フェンダーミラー車、食事処、西日の影
No.0025_0002
竜田街道 - 東
自転車乗りの練習
駐車場(現iセンター)東側の家並み
古写真についての斑鳩町民の記憶
駐車場は、樋口町長時代(在任期間:1951~1966年)にできた。元は田んぼ。修学旅行のバスがよく停まっていた。
自転車の練習にうってつけだった。
駐車場の東側の道路沿いにあるお地蔵様の前で地蔵盆をしていた。
写真の右端に美味しいラーメン屋さんがあった。
その他メモ
右手前から奥は信号のかかる国道25号線
No.0025_0001
竜田街道 - 東
町営観光自動車駐車場で
法隆寺東側の町営駐車場
古写真についての斑鳩町民の記憶
樋口町長時代(在任期間:1951~1966年)にできた。元は田んぼ。修学旅行のバスがよく停まっていた。
自転車の練習にうってつけだった。
松並木の横まで町営駐車場だった。現在は門前からR25までの南北の道路と石畳の歩道ができている。
その他メモ
左手は法隆寺の松並木
街灯、未舗装
No.0024_0001
竜田街道 - 東
新道北より
南北に通る道と交差する新道(現 国道25号線)
古写真についての斑鳩町民の記憶
写真中央に見える細い道が新道(現在のR25)
当初鉄道が敷かれる予定だったが地主が反対し、その計画地が産業道路となり4mだった道を8mとして国道に昇格した。この時松並木が分断された。
現在の写真
2016年撮影
現在は西(写真右)側に法隆寺観光駐車場、東(写真左)側に店舗がある。
国道25号線は県内を走る主要道路として多くの車が往来している。
その他メモ
古写真:稲わら干し、木製の電柱
No.0023_0005
竜田街道 - 東
並松商店街 大売出しの仮装
仮装する並松商店街の人びと
古写真についての斑鳩町民の記憶
写真左の男性は写真提供者のお父さん。男前で人気があった。息子さんも行列に出るように言われたが、恥ずかしいので出なかった。
仮装している人達を見ながら「あの人はどこそこのおばちゃん」「どこそこのおっちゃん」と言っているのを聞くと、よくわかるなぁと思った。
法隆寺西(西里)の子どもは一人では見物に行けず、親に連れて行ってもらった。
この頃は松並木がとても暗かった。
その他メモ
浴衣
No.0023_0004
竜田街道 - 東
並松商店街 大売出しの仮装
仮装する並松商店街の人びと
古写真についての斑鳩町民の記憶
この頃は松並木がとても暗かった。仮装している人達を見て「あの人はどこそこのおばちゃん」「どこそこのおっちゃん」と言っているのを聞くと、よくわかるなぁと思った。
法隆寺西(西里)の子どもは一人では見物に行けず、親に連れて行ってもらった。
その他メモ
仮装(狸、丑の刻参り、地蔵堂の被り物、太鼓、ひょっとこ)
No.0023_0003
竜田街道 - 東
並松商店街 大売出しの仮装
仮装する並松商店街の人びと
古写真についての斑鳩町民の記憶
チンドン屋を雇って来てもらったこともある。
その他メモ
大売出しの幕、団扇、仮装(丁稚と商家の娘?子守り?)
No.0023_0002
竜田街道 - 東
並松商店街 大売出しの仮装
仮装する並松商店街の人びと
古写真についての斑鳩町民の記憶
娯楽の少ない時代、見物するのが楽しかった。
チンドン屋を雇って来てもらったこともある。
その他メモ
仮装(尼僧、小坊主、三味線流し)
No.0023_0001
竜田街道 - 東
並松商店街 大売出しの仮装
仮装する並松商店街の人びと
古写真についての斑鳩町民の記憶
チンドン屋を雇って来てもらったこともある。
娯楽の少ない時代、見物するのが楽しかった。 法隆寺西(西里)の子どもは一人では行けず、親に連れて行ってもらった。
この頃は松並木がとても暗かった。
仮装している人達を見て「あの人はどこそこのおばちゃん」「どこそこのおっちゃん」と言っているのを聞くと、よくわかるなぁと思った。
その他メモ
仮装(異国の人)
No.0021_0010
竜田街道 - 東
集合写真
正装して記念撮影
奥畑鶴松氏寄贈の並松会館か?
古写真についての斑鳩町民の記憶
古写真の撮影場所は確定できないが、並松町通りから北に向かう参道沿いだと思われる。
現在の写真
2014年撮影 並松公民館
その他メモ
古写真:日章旗
No.0021_0009
竜田街道 - 東
並松地蔵堂
建て替え前の地蔵堂
古写真についての斑鳩町民の記憶
元々西里の人の土地だと聞く。この辺りで戦国時代に筒井順慶と松永弾正の合戦があり、死者が出たのでここに石仏があるのか。西里の地主の方々は、このような場所を売ることに抵抗があり、借地として提供した。
商店としては、伊勢参りをする人を顧客に見込んで始まったようだ。
この道は狭かったが、1940年(昭和15)頃にようやく4m位になり、荷馬車を押して通れるようになった。
1877年(明治10)頃は並松は10軒ほどだった。
現在の写真
2014年撮影
写真左の祠は2019年に別の場所に移された。
北(写真奥)側に向かって進むと法隆寺の松並木が見えてくる。
その他メモ
古写真:緑の公衆電話、花飾り
No.0021_0006
竜田街道 - 東
並松地蔵堂
地蔵盆
古写真についての斑鳩町民の記憶
伊吹の木が大きく育っていた。
現在の写真
2014年撮影
伊吹の木は切られ、写真左の祠は2019年に別の場所に移された
その他メモ
古写真:並松公民館、提灯、幕、公衆電話、地蔵、石灯籠、道標
No.0021_0004
竜田街道 - 東
並松自治会のど自慢大会
二人で「アタックNo.1!」
古写真についての斑鳩町民の記憶
並松自治会の行事。
この頃はとても賑やかだった。
現在の写真
2014年撮影
写真奥(西側)の駐車場が、「のど自慢大会」の会場だった
その他メモ
古写真
トロフィー、モール、電子オルガン(エレクトーン)、マイク、スタンド
No.0021_0003
竜田街道 - 東
並松自治会のど自慢大会 観戦の様子
思い思いにステージを見つめる
古写真についての斑鳩町民の記憶
並松自治会の行事。
この頃はとても賑やかだった。
現在の写真
2014年撮影
写真奥(西側)の駐車場が、「のど自慢大会」の会場だった
No.0021_0002
竜田街道 - 東
ラムネの早飲み
並松自治会「のど自慢大会」での、ラムネの早飲み競争
古写真についての斑鳩町民の記憶
並松自治会の行事。
この頃はとても賑やかだった。
現在の写真
2014年撮影
写真奥(西側)の駐車場が、「のど自慢大会」の会場だった
その他メモ
1963年(昭和38)に、町内会を「並松東」「並松中」「並松西」に分けた。
No.0021_0001
竜田街道 - 東
並松自治会 のど自慢大会
トロフィー授与
古写真についての斑鳩町民の記憶
地区(東・中・西)対抗でののど自慢
1963年(昭和38)に、町内会を「並松東」「並松中」「並松西」に分けた。
現在の写真
2014年撮影
写真奥(西側)の駐車場が、「のど自慢大会」の会場だった
No.0020_0004
竜田川道
自転車乗りの練習
竜田川西岸を、川下方向へ小道を走る
1970(昭和45)年4月2日
その他メモ
背後は竜田大橋
No.0020_0003
竜田川道
橋を背にして
木製の橋のたもとで
1965(昭和40)年1月
No.0020_0002
竜田川道
竜田川畔の様子
桟敷がたくさん設えられている
1966(昭和41)年11月6日
その他メモ
屋根付き桟敷、幕、ボート遊び
No.0020_0001
竜田川道
ボート遊び
竜田川にボートを浮かべて
1960(昭和35)年11月23日
その他メモ
両岸に桟敷
No.0010_0001
竜田川道
竜田川畔で
晴れた日にベビーカーで散歩
古写真についての斑鳩町民の記憶
対岸に錦波楼(竜田川沿いにあった料亭)が見える
その他メモ
ベビーカー、錦波楼
No.0010_0002
竜田川道
ボートに乗って
川遊びを楽しむ
その他メモ
水色のボート
No.0010_0006
竜田川道
妹と一緒に
紅葉した楓樹の下で
その他メモ
北側(写真奥)の竜田川上流に竜田大橋が見える。
No.0010_0004
竜田川道
竜田公園のすべり台
木製のすべり台
古写真についての斑鳩町民の記憶
ブランコもあった
No.0010_0003
竜田川道
堂山への道
大きな切り株の横に立って
No.0010_0005
竜田川道
紅葉橋で父と
欄干の低い旧紅葉橋で
No.0010_0007
竜田川道
紅葉橋の姉妹
お揃いの服で一緒に
No.0017_0037
竜田街道 - 西
竜田神社にて
大きい石灯籠の前で
1964(昭和39)年12月
現在の写真
2024(令和6)1月 写真グループ「写遊 鵤」撮影
その他メモ
竜田神社には、奈良県指定天然記念物ソテツの巨樹(1957(昭和32)年6月13日指定)がある。
No.0017_0036
竜田街道 - 西
竜田神社にて
竜田神社の大きな木の前で
1964(昭和39)年12月
2024(令和6)1月 写真グループ「写遊 鵤」撮影
その他メモ
竜田神社には、奈良県指定天然記念物ソテツの巨樹(1957年(昭和32)6月13日指定)がある。
No.0017_0034
竜田川道
竜田川紅葉祭り
提灯のかかる橋の上で
1968(昭和43)年11月
その他メモ
提灯、紅葉の始まった楓樹、紅葉橋?
No.0017_0031
竜田川道
ブランコに乗って
立ち漕ぎで乗る
1968(昭和43)年4月
古写真についての斑鳩町民の記憶
堂山橋近くにすべり台、ブランコがあった。
その他メモ
遊具、民家
No.0017_0029
竜田街道 - 西
七五三
晴れ着でおすまし、狛犬と背中合わせでポーズ
1968(昭和43)年10月
その他メモ
狛犬、灯籠、提灯
No.0017_0026
竜田川道
大きな木の下で
念仏橋付近に植わっていた木とともに
1964(昭和39)年11月
古写真についての斑鳩町民の記憶
有名な木(楓)だった。一本の株で大きかった。残念ながら今はない。
No.0017_0025
竜田川道
竜田公園
川辺で楽しむ人々
1964(昭和39)年11月
その他メモ
公園内の小道
No.0017_0024
竜田川道
川遊びのボート着き場
ボートを裏返して置いている
1964(昭和39)年11月
古写真についての斑鳩町民の記憶
春、秋の観光シーズンには多くの観光客が訪れた。
その他メモ
ボート、桟橋、稲わら干し
No.0017_0022
竜田街道 - 西
子ども用の車に乗って
お姉ちゃん達と
1964(昭和39)年4月
古写真についての斑鳩町民の記憶
子どもの車は高価だった。
現在の写真
2024(令和6)1月 写真グループ「写遊 鵤」撮影
その他メモ
古写真:子どもの車、木馬、お姉ちゃん二人、舗装されていない道、木の電柱
No.0017_0017
竜田川道
竜田公園で
竜田川の畔、紅葉の落ち葉の上に立って
1963(昭和38)年11月
その他メモ
左奥が紅葉橋(木製)、料理屋
No.0017_0014
竜田川道
竜田川原にて
橋のたもとでボートのオールに触ってみる
1963(昭和38)年11月
その他メモ
紅葉橋、ボートのオール
No.0017_0013
竜田川道
竜田公園で
大きな切り株の前で
1963(昭和38)年11月
その他メモ
ボートを裏返して置いている。
対岸左手奥に土管。
No.0017_0008
竜田川道
お魚いるかな・・・
橋脚の様子がよくわかる
1963(昭和38)年11月
古写真についての斑鳩町民の記憶
旧紅葉橋は現在よりも少し上流に架かっていた。
その他メモ
紅葉橋(欄干の低い木の橋)
No.0017_0007
竜田川道
お散歩
お姉ちゃんと紅葉橋を渡る
1963(昭和38)年11月
古写真についての斑鳩町民の記憶
旧紅葉橋と思われます。正面に見える料理屋は今はありません。現在は住宅になっています。
その他メモ
桟橋、稲わら干し、料理屋
No.0017_0006
竜田川道
お散歩
紅葉橋を渡る
1963(昭和38)年11月
古写真についての斑鳩町民の記憶
昔の橋の様子がよくわかる。
その他メモ
裏返して置いているボートが、竜田川の水面に映っている。
No.0017_0005
竜田川道
竜田川原にて
ワンワンが見てるねえ
1963(昭和38)年11月
古写真についての斑鳩町民の記憶
竜田川原には、1970年代に子どもを連れて来たことを思い出す。多くの人が利用していた。(注:ワークショップで採集した記憶であり、撮影した写真と話者の年代は異なります。)
その他メモ
幼い男の子、女の子、民家、犬、稲わら干し
No.0017_0003
竜田川道
竜田公園
木を見上げる幼い子
1963(昭和38)年11月
古写真についての斑鳩町民の記憶
昔の竜田川は川と人間の距離が近く、子どもとよく川遊びをした。たくさんの紅葉の葉が空を覆い夏の日中でも涼しかった。
その他メモ
公園内の小道を自転車で走る少年
No.0017_0002
竜田川道
紅葉橋
紅葉橋を東岸から見て
1963(昭和38)年11月
古写真についての斑鳩町民の記憶
旧紅葉橋と思われます。正面に見える料理屋は現在は無くなり、住宅になっています。
その他メモ
料理屋、三輪自動車、稲わら干し
No.0017_0001
竜田川道
竜田公園
楓樹の向こうに橋が見える
1963(昭和38)年11月
その他メモ
橋の向こうに裏返したボート、落ち葉
No.0015_0007
竜田街道 - 西
祭りの日の記念写真
龍田神社秋祭り。宵宮の日の記念写真
1954(昭和29)年10月
古写真についての斑鳩町民の記憶
錦ケ丘の開発でこの太鼓台の保管場所がなくなった。
9月13日が祭りの日だった。露店が出るので楽しみだった。
竜田神社には七五三の時お参りした。
その他メモ
東部の太鼓台、提灯、祭り姿の人々
No.0015_0006
竜田街道 - 西
祭りの日
ドロップハンドルの自転車に乗る中学生
1958(昭和33)年頃
古写真についての斑鳩町民の記憶
ドロップハンドルの流行りはじめ。中学生くらいの時買ってもらった。セミドロップハンドルはもう少し幼い子でも乗ることができる。
現在の写真
2024(令和6)1月 写真グループ「写遊 鵤」撮影
その他メモ
着物を着た人
No.0015_0005
竜田街道 - 西
保育所の帰り道
西部保育所から帰る園児たち(現在は たつた保育園)
1958(昭和33)年頃
現在の写真
2024(令和6)1月 写真グループ「写遊 鵤」撮影
その他メモ
古写真:保育園児、竜田神社の木
No.0015_0004
竜田街道 - 西
竜田神社祭り
竜田街道を子ども神輿が行く
1958(昭和33)年頃
古写真についての斑鳩町民の記憶
子ども神輿運行の様子。子ども達が歩く龍田の通りにはまだ古い家ばかりが並んでいた。
その他メモ
半被、神輿、幌付きトラック
No.0015_0003
竜田街道 - 西
竜田神社祭り
神輿を担いで
1958(昭和33)年頃
古写真についての斑鳩町民の記憶
13時に東に向いて歩き14時前くらいに帰ってくる。蛾瀬地区の小5・6年生が今でもこの神輿を運行している。
(2014年のワークショップ時に聞き取り)
現在の写真
2024(令和6)1月 写真グループ「写遊 鵤」撮影
その他メモ
古写真:植嶋さんの倉庫。半被が新しい。
No.0015_0002
竜田街道 - 西
祭りの日
祭りの日の竜田街道
1958(昭和33)年頃
古写真についての斑鳩町民の記憶
祭りにはよく通っていた。昭和60(1985)年頃は少し賑わいが減っていたが多くの人がいた。
現在の写真
2024(令和6)1月 写真グループ「写遊 鵤」撮影
その他メモ
古写真:写真奥に竜田神社が見える。タバコ屋さんの家が鉄筋コンクリート。太鼓の音が聞こえているのだろうか。
No.0014_0001
竜田街道 - 西
男の子たち
竜田日進運送の建物付近で遊ぶ子ども達
1969(昭和44)年頃
古写真についての斑鳩町民の記憶
竜田日進運送という運送会社があった。
現在の写真
2024(令和6)年1月 写真グループ「写遊 鵤」撮影
その他メモ
古写真:半ズボン姿の男の子たち
No.0014_0002
竜田街道 - 西
ラジオ体操
夏休みのラジオ体操
1969(昭和44)年
古写真についての斑鳩町民の記憶
夏休みにラジオ体操をしていた。男女別々にやっていた。
この頃北側は何もなく法隆寺の五重塔が見えた。法隆寺の裏山で松茸狩りができた。ラジオ体操は夏休みの8/1~お盆までの2週間やっていた。
現在の写真
2024(令和6)年1月 写真グループ「写遊 鵤」撮影
南から北に向かって
No.0008_0005
竜田街道 - 東
運動会
位置について、用意・・・
1949(昭和24)年
その他メモ
鉄棒、校舎、観戦する生徒、和服姿の男性
No.0008_0004
竜田街道 - 東
魚谷先生を囲んで
皆で整列して行儀よく
1949(昭和24)年
古写真についての斑鳩町民の記憶
昭和19年に小学校に入学した。同級生は30数名だった。
教育大出身の女性教師に習った。しっかりした進歩的な方だった。
No.0008_0003
興留道
家族でポーズ
新家にあった工場の屋上で
1948(昭和23)年
古写真についての斑鳩町民の記憶
長野県から葛の根を取り寄せ「春雨」を製造していた。春雨を干すために屋上を使っていた。
No.0008_0002
興留道
母と
屋根上での写真
1949(昭和24)年
古写真についての斑鳩町民の記憶
新家にあった工場の屋根上で撮影した。
その他メモ
長野県から葛の根を取り寄せ「春雨」を製造していた。春雨を干すために屋上を使っていた。
No.0008_0001
当麻道
母と
稲葉車瀬で撮った一枚
1943(昭和18)年
その他メモ
国旗
No.0007_0022
斑鳩三塔の道
塔と斑鳩神社の鳥居
法隆寺五重塔と天満の松の馬場の松、斑鳩神社の石の鳥居が見える
1967(昭和42)年
古写真についての斑鳩町民の記憶
石造大鳥居は、現在の法隆寺北1丁目の道路に建っていたが、昭和47年(1972)神社石段下に移設された。[1]
その他メモ
[1]『斑鳩の生活史:聖徳太子から1400年』亀井龍彦著 斑鳩文化協議会(1998)P.183、197
No.0007_0011
斑鳩三塔の道
旧陸軍の射撃場跡
射撃場の名残りがある
1964(昭和39)年
古写真についての斑鳩町民の記憶
天満池の近くに射撃場があった。[1]
[1]在郷軍人会奈良支部報「大和錦」第299号(昭和9年4月)
分会活動欄に「法隆寺村分会 陸軍記念日事業として分会射撃場標的庫新築」と記述あり
現在の写真
2017年撮影
当時の遺構は何もない。
その他メモ
旧陸軍のマークのついた遺構
No.0007_0009
太子学問の道
センターラインが引かれた国道25号線
国道25号線
1962(昭和37)年
古写真についての斑鳩町民の記憶
この頃センターラインが引かれた。
現在の写真
2016年撮影
経済の発展などに伴い、工場や店舗などが立ち並んでいる。
その他メモ
古写真:写真左側に大和棟等の民家、右側には延々と山まで続く木製の電信柱。
排気ガスのない空気を感じる。
No.0007_0007
太子学問の道
国道25号線
雪の融けた国道25号線
1957(昭和32)年
その他メモ
まだセンターラインが引かれていない頃。センターラインは1962年(昭和37)頃に引かれた。
No.0007_0002
太子学問の道
学校帰りの三人組み
岡本地区の小学生
1952(昭和27)年
古写真についての斑鳩町民の記憶
斜めがけの鞄が懐かしい。
1950(昭和25)年頃は紙製のランドセルだった。バラやユリの絵が描いてあった。余程裕福でないと皮のランドセルは持てなかった。
その他メモ
秋葉川、稲わら干し、右手に見えるのは幸前神社と秋葉神社
No.0006_0001
イツボ川道
お外で遊ぼ
斑鳩大塚古墳に続く道
1958(昭和33)年11月
その他メモ
おもちゃの車
No.0004_0010
服部道
親子で散歩
見晴らしの良い田畑に囲まれた道を歩く
その他メモ
西の方角に信貴山雄岳雌岳が見える。
No.0004_0008
服部道
お正月
着物でおでかけ
その他メモ
和装
No.0004_0007
その他
目安へ続く道
服部2丁目から目安の第3団地に続く道。道の先は関西本線の踏み切り
古写真についての斑鳩町民の記憶
まだ舗装されていない道があった。
現在の写真
2023(令和5)年12月 写真グループ「写遊 鵤」 撮影
道は舗装されたが、風景はほぼ変わっていない。
No.0004_0006
イツボ川道
線路沿いの道
住宅地に伸びる線路沿いの道
現在の写真
2024(令和6)年1月 写真グループ「写遊 鵤」撮影
その他メモ
フェンス
No.0004_0005
イツボ川道
新しい住宅
整備された閑静な住宅地
No.0003_0006
竜田街道 - 東
斑鳩尋常高等小学校 校庭と校舎
1938(昭和13)年 卒業記念写真帖より
その他メモ
鉄棒、肋木、バスケットゴール
No.0003_0005
竜田街道 - 東
斑鳩尋常高等小学校の校門
1940(昭和15)年3月 『卒業記念写真帖』より
現在の写真
2014年撮影
斑鳩町立斑鳩小学校正門
No.0003_0004
竜田街道 - 東
斑鳩尋常高等小学校
1938(昭和13)年 卒業記念写真帖より
その他メモ
植え込み、藤棚、二宮尊徳像、国旗
No.0002_5005
その他
虫取り
阿波の集落から、虫取りに向かう少年たち
1952(昭和27)年8月
その他メモ
左奥の木は厳島神社。後方には信貴山が見える。
No.0002_5006
興留道
秋祭り
1952(昭和27)年9月
古写真についての斑鳩町民の記憶
子どもの頃、提灯が並んでいる御車のようなものを引いて町を回ったことを覚えている。正式な名前は忘れてしまった。
その他メモ
着物姿の子ども、提灯、歓迎のアーチ
No.0002_5027
興留道
ライダー
法隆寺駅前広場でバイクに乗る人
1952(昭和27)年11月
古写真についての斑鳩町民の記憶
昭和27年法隆寺五重塔の修理が完成したのを記念して歓迎のアーチが作られた。
このバイクは当時の給料の10ヶ月分位で、3人でお金を出し合って買った。
子どもの頃後ろに乗せてもらった。
現在の写真
2019年撮影
その他メモ
歓迎アーチ、自転車屋
No.0002_5028
興留道
家族でポーズ
法隆寺駅前南口広場にて
1952(昭和27)年11月
古写真についての斑鳩町民の記憶
駅前広場の奥には修学旅行の学生のための「学生団体休憩所」があった。
修学旅行生は汽車で法隆寺駅まで来て荷物を預けてから法隆寺へと向かった。
現在の写真
2016年撮影
ロータリーの整備とともに、バスやタクシー乗り場も整備され通行がスムーズになった。
その他メモ
歓迎アーチ、自転車屋、学生団体休憩所
No.0002_5033
興留道
何を見ているのかな
法隆寺駅前
1954(昭和29)年1月
古写真についての斑鳩町民の記憶
この道の左側には駄菓子屋や自転車預かりがあった。
ペコちゃんの絵が現在とは違う。この頃ミルキーを買ってもらうととても嬉しかった。
「浦島酒店」は立ち呑みもやっていた。駅を利用する人も立ち寄っていた。醤油の配達などもしていた。
No.0002_5034
興留道
厳島神社の森で
1954(昭和29)年1月
古写真についての斑鳩町民の記憶
田んぼと神社の間に池(一辺50m程)があり、よく釣りをした。おおきなタイワンドジョウが釣れた。
その他メモ
犬小屋、犬
No.0002_0010
興留道
田植え
男性とおもわれる3人で、苗を手植えしている。
1960(昭和35)年6月
No.0001_0089
竜田川道
竜田川
稲葉車瀬の西を流れる竜田川。
1969(昭和44)年
No.0001_0088
斑鳩三塔の道
天満池から
天満池から見た東里
1968(昭和43)年12月
現在の写真
2024(令和6)年4月 末浪 博已氏撮影
No.0001_0064
斑鳩三塔の道
池越しに塔を望む
岡ノ原の裾から片野池越しに法隆寺を望む
1963(昭和38)年11月
古写真についての斑鳩町民の記憶
岡の原の麓には桃畑があった。
No.0001_0053
斑鳩三塔の道
池のほとり
奥に見えるのは片野池か
1962(昭和37)年4月
No.0001_0039
斑鳩三塔の道
自転車に乗って
法隆寺西大門から南へ向かって走る自転車
1961(昭和36)年1月
現在の写真
2019年撮影
道が舗装されている
No.0002_0001
その他
狙いを定めて
天理軽便鉄道の線路跡近くの田んぼでパチンコ遊びをする子ども
1957(昭和32)年10月
古写真についての斑鳩町民の記憶
天理軽便鉄道の跡地でよく遊んだ。パチンコで(小石を飛ばして)雀を狙う。パチンコは太めのゴムで石を置くところは皮だった。阿波にあった小さなおもちゃ屋に売っていた。
その他メモ
子ども2人。稲刈り後のはさがけ
No.0001_0337
竜田川道
ラジオ体操
夏休み子ども会のキャンプ、ラジオ体操
古写真についての斑鳩町民の記憶
キャンプの翌朝ラジオ体操をした。
No.0007_0018
竜田街道 - 東
バイパス(現大和高田斑鳩線)工事 土盛り
道路の形が作られる
1966(昭和41)年6月
古写真についての斑鳩町民の記憶
興留2丁目辺りは60坪単位で土地を売ってもらい家を建てる場合も多かった。興留は小さな田が多かった。
第一地所(現興留5丁目)は造成してから売り出したので坪単価は高かった。
No.0007_0016
竜田街道 - 東
バイパス(現大和高田斑鳩線)工事 土盛り
バイパス(現大和高田斑鳩線)工事のため、土盛りしている
1966(昭和41)年6月
古写真についての斑鳩町民の記憶
この頃トイレは汲み取り。町の指定業者が回収に来ていた。(農家には来ていない)
その他メモ
傘をさす女性、農具小屋
No.0014_0003
竜田街道 - 西
ラジオ体操
夏休みの朝のラジオ体操
1969(昭和44)年
古写真についての斑鳩町民の記憶
当時この場所は学区の集合場所で、8月初めからお盆までの2週間夏休みのラジオ体操に参加していました。時にはラジオ体操の後、男の子ばかり3~4人で連れ立って松尾山まで水晶を採りに行きました。採れた水晶は小さかったですが、キラキラ光っていてきれいでした。
電波塔の近くでは大きい水晶が採れ、並池(現、奈良学園の裏)辺りは小さい水晶が採れた。
採れた水晶を学校に持っていって見せ合いっこするのが楽しみだった。
現在の写真
2024(令和6)1月 写真グループ「写遊 鵤」撮影
No.0002_5032
興留道
素敵な自転車でしょ
法隆寺駅前広場で
1954(昭和29)年1月
No.0002_5024
竜田川道
竜田公園で
樹木が今より鬱蒼としている。家族で弁当を持参して紅葉狩りに行った。
1952(昭和27)年11月
No.0002_5008
興留道
村祭り
法隆寺駅前の広場で
1952(昭和27)年9月
古写真についての斑鳩町民の記憶
子どもの頃、提灯が並んでいる御車のようなものを引いて町を回ったことを覚えている。正式な名前は忘れてしまった。
その他メモ
祭りの提灯、歓迎のアーチ、晴れ着
No.0001_0108
斑鳩三塔の道
法起寺の塔を望む
梅の頃
1975(昭和50)年3月
現在の写真
2019年撮影
池の周りの整備が進んでいる。
その他メモ
古写真:池、梅、塔
No.0001_0093
斑鳩三塔の道
法輪寺から法起寺に続く道
法起寺の塔を望む
1972(昭和47)年頃
その他メモ
法起寺の塔、左側は造成中の道か
No.0001_0091
斑鳩三塔の道
法起寺の塔を望む
法起寺の見える畑で苺にマルチを掛けている。
1970(昭和45)年1月
現在の写真
2023(令和5)年11月 末浪 博已氏撮影
No.0001_0087
斑鳩三塔の道
塔を望む
1972(昭和47)年 法起寺の塔が見える.。
現在の写真
2024(令和6)年4月 末浪 博已氏撮影
No.0001_0081
竜田川道
ちょっとひと休み
犬の散歩の途中
1979(昭和54)年12月
その他メモ
左側に見えるのは堂山橋か?
No.0001_0080
斑鳩三塔の道
法輪寺
1975(昭和50)年に再建された法輪寺三重塔
1979(昭和54)年3月
No.0001_0072
斑鳩三塔の道
天満池のほとりにて
天満池から東里へ
1970(昭和45)年11月
現在の写真
2024(令和6)年4月 末浪 博已氏撮影
その他メモ
手押し車 カゴ
No.0001_0071
斑鳩三塔の道
法隆寺五重塔
天満池から法隆寺に続く道
1970(昭和45)年11月
現在の写真
2024(令和6)年4月 末浪 博已氏撮影
No.0001_0070
斑鳩三塔の道
農婦
1967(昭和42)年2月
その他メモ
農具
No.0001_0065
斑鳩三塔の道
法輪寺前
法輪寺南大門
1964(昭和39)年9月
古写真についての斑鳩町民の記憶
1944(昭和19)年に落雷により三重塔が焼失し、1975(昭和50)年に再建されたので、この時は三重塔がない。
現在の写真
2019年撮影
その他メモ
古写真:市村義夫氏写真集『塔遠望』初出タイトルは「客を待つ」
同写真集の、1963(昭和38)年の写真には電信柱が設置されていない。
No.0001_0068
竜田川道
開発前の西の山
開発前の西の山
1965(昭和40)年11月
No.0001_0050
斑鳩三塔の道
集落へ続く道
東里集落
1962(昭和37)年3月
現在の写真
2024(令和6)年4月 末浪 博已氏撮影
No.0001_0046
斑鳩三塔の道
農作業
法隆寺南大門の西に続く築地塀前での農作業
1962(昭和37)年
現在の写真
2024(令和6年)3月撮影
No.0001_0042
斑鳩三塔の道
二人乗り
法隆寺東大門から南に続く道
1961(昭和36)年1月
現在の写真
2024(令和6)年4月 末浪 博已氏撮影
その他メモ
法隆寺の塀が傷んでいる。
No.0001_0038
竜田街道 - 東
法隆寺南大門前
1961(昭和36)年1月
古写真についての斑鳩町民の記憶
南大門の直前にも建物がある。
現在の写真
2019年撮影
その他メモ
古写真:参道脇に建物
No.0001_0035
斑鳩三塔の道
土塀と畑
法隆寺の門や塀の際まで田畑
1961(昭和36)年1月
現在の写真
2024(令和6)年1月 写真グループ「写遊 鵤」撮影
No.0001_0032
斑鳩三塔の道
法隆寺土塀と集落
イツボ川沿いの道
1960(昭和35)年10月
現在の写真
2024(令和6)年1月 写真グループ「写遊 鵤」撮影
その他メモ
古写真:押し車と農婦
No.0001_0028
その他
リヤカーを引いて
1960(昭和35)年10月
No.0001_0029
斑鳩三塔の道
牛と農夫
天満池から東里に続く道
1960(昭和35)年10月
古写真についての斑鳩町民の記憶
牛や馬が農耕や運搬に使われていた。
現在の写真
2019年撮影
No.0001_0027
太子学問の道
幸前神社の杜
幸前神社
1960(昭和35)年10月
その他メモ
この先には秋葉神社がある
No.0001_0016
斑鳩三塔の道
農夫
1960(昭和35)年10月
No.0001_0025
斑鳩三塔の道
家族連れ
1960(昭和35)年10月
現在の写真
2024(令和6)年4月 末浪 博已氏撮影
No.0001_0206
竜田川道
紅葉橋
竜田川岸、紅葉橋が見える
古写真についての斑鳩町民の記憶
夏になると子ども達が川に入って遊んでいた。竜田川の東側(堂山橋と竜田大橋の間)に旅館のような家が建っていた。
現在の写真
2023(令和5)年11月 末浪 博已氏撮影
No.0001_0084
竜田川道
竜田川
竜田城址から見る竜田川(写真の右下から左上方向に流れる)
1971(昭和46)年2月
古写真についての斑鳩町民の記憶
この頃は川と人間が近かった。子ども達と一緒に水遊びをした。魚を追いかけたり足を入れてバシャバシャして遊んだ。小学一年生の遠足場所だった。
No.0001_0082
竜田川道
川遊び
1979(昭和54)年12月
古写真についての斑鳩町民の記憶
この頃、土日になると子ども達が竜田川の堂山下(竜田川東側の旧地名)の川辺でターザンごっこをしていた。
昭和一桁生まれの自分たちは、堂山東のところが一番深みになっているので、よく飛び込みをしていた。少年には丁度よいスペースだった。
No.0001_0083
竜田川道
竜田川
奥に三室山が見える。
1979(昭和54)年12月
古写真についての斑鳩町民の記憶
昔の竜田川といえば、夏になると子ども達がよく遊んでいた。川の両側には旅館のような建物があって、春には桜見物にたくさんの人が訪れ賑わった。竜田川は今のように低いところを流れていなかった。
その他メモ
河岸工事が途中までできている。
No.0001_0204
竜田川道
堂山橋を架ける作業
堂山橋を架ける作業
その他メモ
建設中の厚生年金斑鳩荘が見える。
No.0001_0203
竜田川道
竜田公園
堂山橋西側のトイレとブランコ
古写真についての斑鳩町民の記憶
ブランコとすべり台があった。
No.0001_0201
竜田川道
開発前の西の山
東洋アルミの工場と煙突が見える
古写真についての斑鳩町民の記憶
赤ちゃんのお尻ふきを作る工場。その内職を周辺のお母さんたちがしていた。狐やタヌキが出ていた。
この煙突は2014年に無くなった。それまでは煙突の上にイソヒヨドリが来ていた。
その他メモ
奈良医療の工場もあった。煙突にガーゼ・ホータイの文字が見える。
No.0001_0311
竜田川道
キャンプ
竜田公園での夏休み子ども会のキャンプ
古写真についての斑鳩町民の記憶
追手の子ども会が行ったキャンプ。ボランティアの方がテントの建て方を教えてくれた。怪談話などもあった。
No.0001_0202
竜田川道
堂山下の道
小道からは、竜田川の流れが右手下に見える
現在の写真
2023(令和5)年11月 末浪 博已氏撮影
2023(令和5)年11月 末浪 博已氏撮影
No.0001_0209
竜田川道
紅葉橋
No.0002_5025
竜田川道
竜田川散策
竜田川に架かる橋を渡る。
1952(昭和27)年11月
古写真についての斑鳩町民の記憶
家族で弁当を持って紅葉見物や川での水遊びに行った
No.0007_0023
斑鳩三塔の道
大黒屋の看板
大黒屋(旅館)の前の様子
1965(昭和40)年
古写真についての斑鳩町民の記憶
『斑鳩物語』で有名
現在の写真
2017年撮影
老朽化により取り壊され、駐車場になっている。
その他メモ
大黒屋は鴟尾をのせた木造3階建ての旅館で、明治10年頃建設された
この旅館の前には法隆寺夢殿がある
No.0005_0001
竜田街道 - 東
法隆寺参拝(早春)
法隆寺参拝の帰り道。
1964(昭和39)年3月
古写真についての斑鳩町民の記憶
日常的に和服を着ている人もいた。
その他メモ
現在では子どもと観光バスを見に行く道としてよく歩いている。この参道は東西を県道にはさまれた町道である。
No.0001_0077
竜田川道
キャンプ
子ども達が竜田川畔でキャンプをしている。
1973(昭和48)年7月
古写真についての斑鳩町民の記憶
土手がコンクリートになっておらず、川遊びができた。
自由に川に降りることができた当時の様子がよくわかる。
その他メモ
テント
No.0001_0078
竜田街道 - 東
法隆寺前
国道25号線から見た法隆寺の参道
1972(昭和47)年
現在の写真
2024(令和6)年1月 写真グループ「写遊 鵤」撮影
古写真右奥の駐車場だった所に「法隆寺ⅰセンター」が建てられた。[1]
その他メモ
古写真:通行人(待ち合わせか)、松並木、観光バス、法隆寺参道、国道25号線
「聖徳宗総本山法隆寺」の石碑(法隆寺の「隆」の字は「隆」(異体字)である)
[1]『斑鳩の生活史:聖徳太子から1400年』亀井龍彦著 斑鳩文化協議会(1998)p.82
No.0001_0010
斑鳩三塔の道
村(岡本)へ入る道
村(岡本)へ入る狭い道
No.0002_0003
斑鳩三塔の道
法隆寺土塀と西大門
右手奥に法隆寺西大門が見える
1958(昭和33)年9月
現在の写真
2024(令和6年)3月撮影
その他メモ
現在土塀は修復され道幅もやや広くなっている。
No.0001_004
斑鳩三塔の道
天満池越しにみえる墓地
天満池越しにみえる極楽寺墓地
1959(昭和34)年6月
その他メモ
白石畑へ行く道
No.0007_0014
興留道
変貌する興留
農作業の合い間のひと休み
1966(昭和41)年6月
古写真についての斑鳩町民の記憶
湿地帯なので田植えのとき、かなり浸かっていた。
その他メモ
麦わら帽子を被った農夫2人、建設中の家
No.0005_0003
竜田街道 - 東
秋の中ごろの晴れた日
1966(昭和41)年頃
その他メモ
「バス乗り場」は少し東側に移動し、この場所は現在「ⅰセンター」になっている。
No.0007_0021
服部道
国鉄法隆寺駅
国鉄時代の法隆寺駅のホーム
1968(昭和43)年
古写真についての斑鳩町民の記憶
上りホームには3番のりばがあった。
現在の写真
2016年撮影
2007(平成19)年の橋上駅化に伴い、3番のりばは撤去された。
その他メモ
駅舎
No.0004_0004
イツボ川道
保育園の制服で
保育園の制服姿
1977(昭和52)年4月3日
その他メモ
宅地造成中か、 都市ガスメーター、水道蛇口、線路
No.0004_0001
服部道
服部旧村集落と社宅
社宅付近で父と
1973(昭和48)年11月
その他メモ
当時の子どもの乗り物(車)、稲わら干し
No.0007_0024
斑鳩三塔の道
大黒屋 全景
大黒屋旅館
1965(昭和40)年
古写真についての斑鳩町民の記憶
高浜虚子が『斑鳩物語』を執筆した旅館として有名。
戦後この旅館の前で盆踊りをしていた。
現在の写真
2017年撮影
老朽化により取り壊され、駐車場になっている。
その他メモ
大黒屋は鴟尾をのせた木造3階建ての旅館で、明治10年頃建設された
この旅館の前には法隆寺夢殿がある
No.0007_0025
斑鳩三塔の道
廃屋の大黒屋
大黒屋旅館
1982(昭和57)年
古写真についての斑鳩町民の記憶
この旅館の前で、戦後はよく盆踊りをしていた。
高浜虚子が『斑鳩物語』を執筆した旅館として有名。
現在の写真
2017年撮影
老朽化により取り壊され、駐車場になっている。
その他メモ
大黒屋は鴟尾をのせた木造3階建ての旅館で、明治10年頃建設された。
廃屋となってしまったが、屋根瓦の様子と鴟尾が見える。
壁にポスターが貼られている。
東隣りに旅館大黒屋の看板が見える。
No.0001_0062
竜田川道
紅葉狩り
ひょっとこの余興を楽しむ人々
古写真についての斑鳩町民の記憶
日常的に和服で纏め髪姿の女性がいた。川のすぐ近くまで下りることができた。
その他メモ
観光客と芸人
No.0001_0011
斑鳩三塔の道
法起寺
法起寺
古写真についての斑鳩町民の記憶
刈り入れが終わった田んぼと稲わらが見えるので秋以降だが、柿の木の葉がなくなっているので寒い時期の写真だと思う。
写真右手前はトイレ。
その他メモ
法起寺講堂、塔、聖天堂
No.0001_0009
斑鳩三塔の道
法起寺南大門
法起寺南大門
その他メモ
現在は西門から出入りするので、南大門の存在を知らない人がいる。
No.0003_5001
太子学問の道
散歩
上宮地蔵前を犬と散歩
1980(昭和55)年
古写真についての斑鳩町民の記憶
8月24日の地蔵会では、大きな数珠繰りをしていた。
その他メモ
上宮地蔵、太子道、道標石、レンゲ畑
No.0003_5002
太子学問の道
上宮での犬の散歩
上宮での犬の散歩
1985(昭和60)年
古写真についての斑鳩町民の記憶
上宮地蔵前で8月24日の地蔵会では大きな数珠繰りをしていた。
その他メモ
上宮地蔵、太子道の道標
No.0004_0009
服部道
集団登園
写真奥に見えるのは旧服部村
その他メモ
生垣
No.0001_0063
斑鳩三塔の道
法輪寺前
法輪寺南大門
1963(昭和38)年10月
古写真についての斑鳩町民の記憶
1944(昭和19)年に落雷により三重塔が焼失し、1975(昭和50)年に再建されたので、この時は三重塔がない。
現在の写真
2024(令和6)年4月 末浪 博已氏撮影
その他メモ
法輪寺前の道(現在町道)は舗装されていない地道。
No.0002_0012
その他
富雄川を渡るSL
線路にレールがない様子
1960(昭和35)年9月
古写真についての斑鳩町民の記憶
富雄川の鉄橋を走る汽車。昭和19年戦争による金属供出で片側の線路が撤去され単線になっている。(王寺~奈良間)
再複線化は昭和36年[1]
[1]『斑鳩の生活史:聖徳太子から1400年』亀井龍彦著 斑鳩文化協議会(1998)p.66
『町制50周年記念 町勢要覧』斑鳩町総務部企画公室(1997)統計資料16
現在の写真
2024(令和6)年1月 写真グループ「写遊 鵤」撮影
その他メモ
鉄橋
No.0001_0067
竜田川道
竜田川と橋
竜田川に架かる小さな橋を渡る親子
1965(昭和40)年11月
古写真についての斑鳩町民の記憶
堂山橋の袂(たもと)に「つるや」の桟敷があった。「つるや」のおばちゃんは剛毅な方だった。
その他メモ
橋は堂山橋か。ベビーカーの親子。
No.0003_0001
太子学問の道
お祝いの日
成福寺唐門前で仲良く記念撮影
古写真についての斑鳩町民の記憶
現在成福寺は廃寺となりフェンスに囲まれた敷地のみになっている。
その他メモ
成福寺の唐門、女の子の七五三のお祝い
No.0001_0059
竜田川道
竜田川と橋
懐かしい木の橋(紅葉橋か?)
1962(昭和37)年10月
古写真についての斑鳩町民の記憶
この時代は木の橋が当たり前だった。
その他メモ
欄干が低い
No.0001_0079
その他
川と橋とリヤカー
リヤカーで荷物を運んでいる。
1971(昭和46)年
現在の写真
2023(令和5)年12月 写真グループ「写遊 鵤」撮影
その他メモ
この橋は増水すると沈んでしまう。
No.0001_0060
竜田川道
ボート遊び
川ではボートを漕ぎ、岸辺では桟敷で紅葉狩りを楽しんでいる(竜田川)
1962(昭和37)年10月
古写真についての斑鳩町民の記憶
春、秋の観光シーズンには多くの観光客が訪れた。この辺りの川沿いには料理旅館(錦波楼,もみじ屋,ふきの屋)が軒を連ねていた。
現在の写真
2016年撮影
ボート遊びはなくなったが、県立竜田公園として整備され、春は桜、秋は紅葉の名所として親しまれ住民の交流がなされている。
No.0002_0011
その他
富雄川の鉄橋
金属供出により片方の線路が撤去され、単線になった富雄川鉄橋
1960(昭和35)年9月
古写真についての斑鳩町民の記憶
戦争で金属供出により片方の線路が撤去され単線になっている
現在の写真
2024(令和6)年1月 写真グループ「写遊 鵤」撮影
その他メモ
古写真:鉄橋、汽車
No.0004_0003
服部道
登園風景
前方に見えるのは服部川に架かる橋
古写真についての斑鳩町民の記憶
服部の自宅から当時龍田南3丁目にあった南部保育園に集団登園していた。
その他メモ
農具入れ、信貴生駒山系の山並み(中央やや左に信貴山雄岳と雌岳)
No.0004_0002
服部道
登園風景
前方には服部川の堤が見える
古写真についての斑鳩町民の記憶
服部の自宅から当時龍田南3丁目にあった南部保育園に集団登園していた。
その他メモ
小吉田の町なみ、カーブミラー、信貴山雄岳・雌岳(正面やや左)
No.0001_0056
斑鳩三塔の道
登園風景
法隆寺の参道を通って登園
1962(昭和37)年4月
古写真についての斑鳩町民の記憶
2012年頃、松並木の道沿いにあった医院が閉院してしまった。この医院は有名な建築家が建てたものだそうだ。
(注:ワークショップで採集した記憶であり、撮影した写真と話者の年代は異なります。)
その他メモ
園児2人
No.0002_0006
斑鳩三塔の道
法輪寺で遊ぶ子ども
かくれんぼ
1959(昭和34)年2月
古写真についての斑鳩町民の記憶
境内は子どもの遊び場だった
No.0001_0037
竜田街道 - 東
法隆寺参道
1961(昭和36)年1月
古写真についての斑鳩町民の記憶
小学校当時(昭和51年~昭和56年)法隆寺に行くのは秋祭りと会式のときだった。その時松並木をよく通って行った。
No.0007_0017
竜田街道 - 東
バイパス(現大和高田斑鳩線)工事
土盛りによって道路の形が作られる
1966(昭和41)年6月
No.0001_0033
竜田街道 - 東
法隆寺参道
松並木を歩く親子
1961(昭和36)年1月
古写真についての斑鳩町民の記憶
小学校当時(昭和51年~昭和56年)、法隆寺に行くのは秋祭りと三月の会式(えしき)の時だった。その時この松並木を通って行った。
No.0001_0008
斑鳩三塔の道
法起寺の塔
新池越しに法起寺の塔を望む
古写真についての斑鳩町民の記憶
昭和30年頃、新池は澄んでいてきれいな池だった。小学生の頃泳ぎに行った。エビもいて身体をつつかれた。竹竿を浮き輪代わりにして遊んだ。大人には危ないと注意されたが泳ぎに行った。
写真左に見える建物は現在ビニールハウスになっている。
No.0007_0013
竜田街道 - 東
バイパス(現大和高田斑鳩線)工事始まる
農道がバイパスに変わっていくところ
1966(昭和41)年6月
古写真についての斑鳩町民の記憶
オート三輪が通れる農道だった。
先ず西名阪法隆寺インターチェンジまでの道を作っていた。
東側は水路があり広げられなかったので、写真奥の大和棟の家を引き家して動かした。水路は今も残っている。
その他メモ
並松集落、大和棟の家
No.0007_0019
服部道
跨線橋工事 その1
建設中の道路(現大和高田斑鳩線)並びに付近の風景
1968(昭和43)年
古写真についての斑鳩町民の記憶
昭和44年(1969年)も跨線橋工事は継続中だった。
高速道路ができたことを契機に引かれた道なので将来の記録に残そうと思って撮影した。
その他メモ
2階建集合住宅、洗濯物
No.0001_0020
斑鳩三塔の道
法起寺三重塔
この写真では塀が無いようだ。
1960(昭和35)年10月
古写真についての斑鳩町民の記憶
高浜虚子の『斑鳩物語』で有名。
法起寺(ほうきじ)は地元では「ほっきじ」と呼んで親しんできた。
その他メモ
秋にはコスモスの花が美しいので写真撮影する人が多い。
No.0001_0045
斑鳩三塔の道
聖雲閣
何かの会で集まった人たち
古写真についての斑鳩町民の記憶
聖雲閣はなくなり、現在は駐車場にかわった。西大門からウォーナー塔へいく道沿いから見える料理屋だった。
聖雲閣は料理旅館で天ぷらが専門だった。
この道は車が入ってこないので、かくれんぼ、ボール投げをした。近所の子は男の子も女の子も10歳くらいまで遊んだ。
法隆寺境内でもよく遊んだ。もう少し大きくなると、弁天池に材木がプカプカ浮いていたので、それにのって遊んだ。危なかったが楽しかった。
(2013年のワークショップ時に聞き取り)
現在の写真
2024(令和6)年2月撮影
2004年頃に駐車場になった。
その他メモ
古写真:聖雲閣より法隆寺西大門への道と塀。懐かしい車(タクシー)とスーツ姿の男性と和服の女性。
No.0001_0044
斑鳩三塔の道
西里の聖雲閣前
聖雲閣への送迎のタクシー
1962(昭和37)年
古写真についての斑鳩町民の記憶
聖雲閣はなくなり現在は駐車場になっている。西大門からウォーナー塔へいく道沿いにあった料理屋だった。
聖雲閣は料理旅館で天ぷらが専門だった。
この道は車が入ってこないので、近所の10歳くらいまでの子ども達は、男の子も女の子もかくれんぼやボール投げをして遊んだ。
法隆寺境内でもよく遊んだ。もう少し大きくなると弁天池に材木がプカプカ浮いていたのでそれにのって遊んだ。危なかったが楽しかった。
現在の写真
2024(令和6)年2月撮影
2004年頃に駐車場になった。
その他メモ
前方は法隆寺西大門
No.0001_0057
竜田街道 - 東
下校
斑鳩小学校からの帰り道
古写真についての斑鳩町民の記憶
当時二階建ての家は珍しかった。並松商店街は何でも揃っていて便利だった。
現在の写真
2014年撮影
その他メモ
古写真:並松商店街。西日を浴びて下校している。写真の奥が斑鳩小学校。
No.0002_0014
興留道
朝の待ち合わせ
旧国鉄法隆寺駅前に集まる小学生の集団登校
1960(昭和35)年10月
古写真についての斑鳩町民の記憶
斑鳩小学校への集団登校の集合場所だった。現在はバス乗り場になっている。「歓迎」のアーチがあった。
駅前といえども舗装されておらず、雨が降るとぬかるんでいた。
現在の写真
2019年撮影
ロータリーの整備に伴い、バスやタクシー乗り場も整備された。
その他メモ
古写真:吉田亀吉石碑、タクシーの看板
No.0002_0013
興留道
集団登校の待ち合わせ
斑鳩小学校への集団登校
1960(昭和35)年10月
古写真についての斑鳩町民の記憶
集団登校の集合場所。現在はバス乗り場になっている。「歓迎」アーチがあった。
その他メモ
吉田亀吉の銘が入った石碑は今でもあるが、地面に埋め込まれこの写真のように土台部分が高くない。
自転車屋の看板。
No.0002_0016
服部道
通学
斑鳩小学校へ通学する児童
1960(昭和35)年10月
古写真についての斑鳩町民の記憶
今では両側に住宅や商店が立っているが当時は田んぼで地道だった
No.0002_0018
イツボ川道
集団登校
斑鳩小学校への通学 奥に五百井のニシキ醤油の煙突が見える
1960(昭和35)年10月
古写真についての斑鳩町民の記憶
昭和35年頃私は中学2年生、斑鳩小学校に制服ができたのは私が卒業してしばらく(2年位)してからのようだ。当時は大方醤油屋さんの煙突がこんなにもそびえていた。
現在の写真
2016年撮影
道路とイツボ川を挟んで両側に住宅が立ち並んでいる。
写真右(東)側にあった池も埋め立てられ宅地になった。
No.0002_0019
イツボ川道
集団登校
斑鳩小学校へ通学
1960(昭和35)年10月
古写真についての斑鳩町民の記憶
当時は左側は田んぼ、右側は池だった。後方の煙突には「ヤマトニシキ」の文字が見える。
その他メモ
今ではこの道の両側に住宅が建っている。
昭和35年頃私は中学2年生、斑鳩小学校に制服ができたのは私が卒業してしばらく(2年位)してからのようだ。当時は大方醤油屋さんの煙突がこんなにもそびえていた。
No.0002_0015
興留道
斑鳩小学校へ通学する児童
1960(昭和35)年10月
古写真についての斑鳩町民の記憶
JR法隆寺駅北側は現在車輌は一方通行になっているが当時は歩行のみだった
No.0002_0017
イツボ川道
斑鳩小学校へ通学する児童
斑鳩小学校へ、集団登校で通学する児童たち
1960(昭和35)年10月
古写真についての斑鳩町民の記憶
両側は田んぼで地道だった
No.0007_0020
服部道
跨線橋工事 その2
建設中の現JR跨線橋
1968(昭和43)年
古写真についての斑鳩町民の記憶
昭和44年(1969年)も跨線橋工事は継続中だった。
高速道路ができたことを契機に引かれた道なので将来の記録に残そうと思って撮影した。
その他メモ
街燈、作業員、左官屋、コテ
No.0001_0040
斑鳩三塔の道
聖雲閣前の道
聖雲閣の看板が見える
1961(昭和36)年1月
古写真についての斑鳩町民の記憶
聖雲閣は料理旅館で天ぷらが専門だった。
聖雲閣の離れ(「べったしき」とよばれていた)でお見合いをした。
料亭なので食器も季節によって違い贅沢だった。
離れの床下は広く、農作物(ジャガイモ,サツマイモ)などの保存していた。籾殻(もみがら)がたくさんあった。
現在の写真
2024(令和6)年2月撮影
2004年頃に駐車場になった。
No.0007_0006
斑鳩三塔の道
「肥たご」を運ぶ農夫
松並木が残る天満の馬場
1957(昭和32)年
古写真についての斑鳩町民の記憶
忌中のときの初詣は、鳥居をくぐらず外を通ってお参りした。
現在の写真
2016年撮影
鳥居は1970年代頃に斑鳩神社の階段下に移転されている。写真奥の右側に公園が整備され、松尾寺参りの方々の待ち合わせ場所としても活用されている。
その他メモ
古写真:松尾寺参りの道の途中にある鳥居
No.0003_0002
太子学問の道
成福寺境内での相撲
成福寺での子ども相撲。女の子が行司役をつとめている。
1942(昭和17)年
古写真についての斑鳩町民の記憶
成福寺は、現在の上宮遺跡公園(法隆寺南3丁目)の南にあった。
その他メモ
成福寺本堂
No.0001_0058
斑鳩三塔の道
道標
法隆寺近くの道標
1962(昭和37)年
古写真についての斑鳩町民の記憶
戦後この商店へよく菓子を買いに行った。今では懐かしい自動販売機。
その他メモ
斑鳩町内と奈良県内各地への道標
No.0002_0007
斑鳩三塔の道
法輪寺境内で遊ぶ子ども
1959(昭和34)年2月
その他メモ
三輪車
No.0003_0003
その他
梵天山開墾畑記念碑前記念写真
梵天山開墾畑記念碑前記念写真
1944(昭和19)年
古写真についての斑鳩町民の記憶
梵天山は戦時中の食糧難対策の一環として開墾された。昔は、山で松茸がよくとれた。
その他メモ
当時の村長、村会議員
No.0002_0020
斑鳩三塔の道
法隆寺五重塔を望む通学路
法隆寺五重塔を望む通学路
1960(昭和35)年10月
古写真についての斑鳩町民の記憶
当時の通学路。今では住宅が建ち、この場所から法隆寺は見えない。
その他メモ
法隆寺、塔、土塀
No.0005_0004
竜田街道 - 東
柵に乗って遊ぶ小学生の女の子
法隆寺参道松並木にて
古写真についての斑鳩町民の記憶
この近くには講談師吉田奈良丸の石碑がある。大きなものだが意外と見落とされがちな気がする。
R25号線沿い(参道の角)に伊藤薬局があった。以前は旅館を営んでおり大きなテレビがあった。
昭和30年代、プロレスの力道山の試合が放映される日はテレビを見せてもらいに通った。
現在の写真
2014年撮影
並松商店街から法隆寺に向かう参道 奥に見えるのは「奈良丸之碑」
古写真は反対側(東側)に向いて撮影
その他メモ
松、民家